祖母へのオマージュ

2010年6月22日 23:53【くらし, たてもの, プロジェクト, 未分類

 パリのシャルルドゴール空港の2Fターミナルでアムステルダム行きの飛行機を待っています。10日前に祖母が亡くなり急遽日本へ帰国をしたのですが、なるべく有効に時間を使おうと夜遅く成田を発ち、早朝(朝4時!)にパリに到着する便で戻ってきたのです。

22juni10-01.jpgアムステルダム行きの飛行機は2Fターミナルから出発します。空港のゲートは通常特徴のない通路に配列されていて味気ないものですが、ここはガラスで覆われた鉄骨構造の大空間から搭乗するようになっていて、パンチドメタルを通して拡散された柔らかい光の溢れる陰影のない空間は、旅立ちのロマンスがあっていいなあとはいつも私は思います。もちろん夏の昼間は正直かなり暑いのですが、今朝は日の出の時間に重なり、ゆっくりとラウンジは明るくなっていってうっすら色づく水平線を見ながら私はちょっとメランコリックな気持になりました。今年103歳になる祖母の葬儀を済ませ、私が設計者として関わった、彼女が友人たちと最期の7年間を暮らした神奈川県真鶴町の共同住宅の将来を考える話し合いを始めた今回の滞在は私がこうして建築の仕事をしている背景には祖母の影響が大きかったということを改めて実感した日々でもありました。そこでアムステルダムと東京の間の夜とも昼ともつかない空の上を漂いながら書いた祖母の思い出を紹介させてください。

22juni10-02.JPG私がオランダに留学した時に祖母はアムステルダムに訪ねてきました。80歳の時です。当時私はアムステルダムの町のど真ん中、中世エリアに住んでいました。60歳過ぎても現役の飾り窓のおばさまが鎮座し、クイーンのフレディ・マーキュリーもよく来ていたハードコアなゲイ・ナイトクラブや毎晩のように関係のもつれで男女の喧嘩が通りで繰り広げられるアイリッュバーがあり、私の下宿はマリファナを合法に売るコーヒーショップの2階というアムステルダムカルチャーそのものの路地でした。そして、レンガ建てで、まったく日の当らない、間口3メートルでウナギの寝床のような私の部屋に急こう配の階段をなんとかよじ登って部屋に入った祖母は「よくまあ、こんな石の壁と壁の間に住めるもんだね、わしゃ息ができんよ。」とコーヒーと煙草で一服しながら言ったのです。

22juni10-03.jpgあの時は何言ってんのかね、と思ったのですが、結局彼女の一言は私にとって忘れがたいものになりました。「石の壁と壁の間に住む」ことは戸建の建物ではない、隔壁がべったりくっついているヨーロッパの都市住宅の宿命のようなものです。前と後ろにしか窓はなく、横からは光が入らない。そしていつの間にか私も「壁と壁の間に住む」ことを負担に思うようになり、どうやったらそうではない集合住宅を設計するか、は今では私の事務所の重要なテーマの一つです。そしてクライアントを説得するために私は祖母の言葉をよく引用しました。祖母の本能的ともいえる空間感覚は日本的、アジア的なものですが、ヨーロッパの都市住宅では育まれてこなかった住空間のクオリティで、ディベロッパーはなかなかうんと言いませんが、住民参加型のプロジェクトでは皆さん良くわかってくれます。前と後だけでなく多方向から光と風が入る空間はウナギの寝床より快適なのは誰の目にも明らかというわけです。

正確に言うと彼女は私の祖母ではありません。母の母の姉、つまり大叔母にあたります。母の母がなくなったとき、大叔母はまだ学生だった母を養女としたのです。彼女は一生独身で、活動家でした。私は彼女の活動がどのようなものであったか、正確に把握していなくて、大正モダニズムの時代に作家を目指し、戦争中は大政翼賛会で活動し、戦後デンマークで開催された第一回の世界婦人大会に平塚らいてうを団長とする日本代表団の事務局長として参加し、その後は毛沢東主義者として日中友好運動に関わったというぐらいしか知らないのです。実家の隣の祖母の家にはいつも両切ピースの青い煙が立ち込め、多くの活動家の女性たちが集まって喧々諤々と議論していて、両親とも働いていたので私は学校から帰ると祖母の家で煙にまみれながら毛沢東バッチで遊んだり、雑誌「人民中国」の妙にすがすがしい紅小兵のグラビアを見て母の帰宅を待ったものでした。

東大紛争のときは研究にならないと言ってアメリカの大学に数カ月滞在したぐらいですから私の父は全くのノンポリで、母は全く労働せずに活動にいそしむサロンソーシャリストの祖母を心のどこかで認めてなかったところがあり、その空気を感じていた私は活動家たちの話を興味深く聞きながらも母の不信を感じ取っていました。でも怒りっぽくておてんばを超えたいたずら子ザルのような、お調子者で落ち着きのない土佐人の祖母と私は基本的に同類で、その関係はおばあちゃんと孫というのとはぜんぜん違ったなと、今日祖母の死に対峙しながらしみじみ思います。

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祖母の影響は我が家でもかなりのものでした。40年以上も前に、当初母が仕事をすることを渋っていた父には「あなたが家にいて子供の面倒を見ればよい」と言ったそうです。祖母の活動には距離を置いてはいても自分が仕事をすることが当たり前だと母が思ったのも、普通の家に育った父が我が身を嘆きながらも週末自主的に家の掃除をするようになったのも、父が私のボーイフレンドに「森子は彼女がやりたいと言っている建築を思い存分するのだから邪魔をするな」といったのも、祖母の影響は大きかったと思います。そしてそんな両親のもとで育った私は、結婚せずに仕事を続けようとすると家族や周りのプレッシャーを意識しなければならなかった友人たちの状況を異文化の話のように思ったものです。幸いにして、祖母が90近くになって始まった真鶴のグループホームの計画では設計者として彼女の思考やウィットを目の当たりにすることもできました。今祖母がこの世を去り、改めて彼女の私への影響は計り知れないなと思っています。103年の生涯。ほとんどの同士、友人に先立たれ、最期はさぞやさびしかったでしょう。天国で友人と再会して喧々諤々やってほしいと思います。

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