対話編10 花→青 09

2010年9月17日 10:56【青木淳×花田佳明 対話

青木君へ

花田です。
第2便、ありがとう。

「だから、ぼくは、前の書き込みで書いたように、自分(たち)の今の生活をテーマとして、自分(たち)を主人公とする映画を撮るとして、そのなかの重要なシーンとして、皆さんがどんな場所をどんな感覚の場所として使ってみたいのか、それを知りたいのです。具体的であればあるほど、いいですね。」という最後の文章を読むと、あとはもう学生諸君の案を待てばいいんだという解放された気分になってしまいました(笑)。

もちろん思考停止というわけではないのですが、「風景から建築へ」というテーマが必然的にもたらす結果、かもしれませんね。
「風景」という言葉のもつ総合性のようなものの生む効果。

9月半ばとなり、そろそろ学生諸君が大学に戻り始めています。
昨日はオープンスタジオ入賞経験者2名と今回の課題について雑談をしたのですが、ひとりの学生は、「これまでの『模型から建築へ』と『ドローイングから建築へ』との関係を考えてみたら、今回の『風景から建築へ』には、過去の2つの課題で考えたことが含まれてしまうと感じた」と言っており、なるほど、と思いました。

今回は、「モノとコトの二分法のうち、これまでの2課題がモノ、今回はコト」というのが出発点だと思っていたのですが、ちょっと違うかもしれないという気がしたというわけです。
むしろ、モノとコトの両方を包含したものとして「風景」はある。この言葉には、そういう広さのようなものがありますね。
当たり前、かな。

ところで、「自分(たち)の今の生活をテーマとして、自分(たち)を主人公とする映画を撮るとして、そのなかの重要なシーンとして、皆さんがどんな場所をどんな感覚の場所として使ってみたいのか」という青木君からの問いかけを僕自身に投げかけてみると、これが困ったことに、全然イメージがわいてこない。
そのかわり、かつて思い描いたいくつかの「シーン」ばかりが思い出されてくる。
しかも、もうそこには絶対に戻れない風景として。
歳とった証拠、ですね。

たとえば、学生の頃に見た唐十郎のテント劇。
新宿副都心の、今はNSビルが建っているブロックがまだ空き地で、そこに張られたテントの中に、ぎゅう詰めになって演劇を見た冬の夜。
情けないことに劇の題名を思い出せないのですが、最後の場面で舞台後ろのテントが突然開き、夜の新宿の街が飛び込んできた。そして、その街のネオンやビルの明かりを背景に、救急車が1台、赤いランプを回転させながら、ゆっくりゆっくりと左から右へ横断していった。
僕は、都市の「風景」とはまさにこれだと感激し、「ああこんな卒計をやりたいなあ」と思ったのでした(きっと4年生の冬だった・・)。

青臭い話です。
でもそういう記憶は消えないもので、今の学生諸君が自然体で示す町や人への親和性のようなものが僕にはもうひとつぴんとこないのは、こういう風景とのギャップを感じるからだろうなと思ったりする。

一方、東京に対するそんな記憶と篠原一男の住宅とは、何の違和感もなく僕の中で重なります。
彼は「東玉川の住宅」の廊下を都市の街路に見立て、そこをよぎる人影のイメージのようなものを言葉で書いていましたが、その廊下の夜の写真と、新宿のテントの向こうを横切るスローモーションのような救急車の映像は、僕にとって、まさに「重要なシーン」としての都市の「風景」です。

もうひとつ僕の中にある「風景」。
手抜きで申し訳ないのですが、以前、愛媛新聞でやっていた連載で書いた文章をそのまま載せます(愛媛新聞「道標」(掲載 2008年8月31日)連載7回目)。

僕は「風景」について考えていくと、こんなふうにどんどん拡散していってしまう。
一方、青木君は具体的なものに踏みとどまることを求めていると思うし、きっとそれができる。建築家になれるかどうかの分かれ道だなとつくづく思う。
つまり、「風景」という言葉でモノとコトを統合する力をもっているかどうかということですね。
その「力」の「今」の様子を、学生諸君には示してほしいし、10月2日の特別講義で、青木君には語ってほしい。

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故郷がくれた原風景
--価値判断の物差しに--
神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 原風景という言葉がある。人や町の基底を形づくる映像的なイメージとでもいえばよいか。かつて奥野健男が『文学における原風景』という本で用いて一般化し、建築や都市を語るときにもよく使われる。戦争で廃墟となった都市、下町の路地、旅した国、深い森・・、さまざまな原風景を手がかりとして、小説や建築や芸術作品が生み出されてきた。
 一歩間違うと「国民共通の原風景」といった具合に、ナショナリズム高揚に利用されかねない言葉なので要注意だが、自分の中に原風景としか呼びようのない何かがあるのも事実だ。
 私にとってそれは、生まれ故郷・愛媛の山村が喚起するイメージである。
 私は昭和三十一年に野村町(現在の西予市)に生まれ、小学校三年生の秋までそこで暮らした。
 記憶があるのはわずか四、五年のことなのに、気がつくと当時のさまざまな風景の中を歩いている自分がいる。
 霧に包まれた通学路、野村小学校の木造校舎の靴ぬぎ場、大きな銀杏のある校庭、週末通った病院の帰りに乗る夜のバス、住んでいた家の台所の土間、農薬を食べて死んだ愛犬・・。断片的な映像が次々に浮かんでは消え、その中にいる自分を見ている自分がいる。
 しかしそれが原風景かというと少し違う。私の中には、これらの断片を束ねるもうひとつ別のイメージがある。それは、今書いたような映像が野村町の盆地の底で物語を編む様子を上空から眺めた鳥瞰図だ。
 都会から遠く離れ、周囲を山に囲まれて閉じた世界の底にあるユートピア。大袈裟と笑われるかもしれないが、野村町の空間と生活をそんな言葉に抽象化すると、それが自分の原風景だと納得がいく。そしてこのイメージが、私の価値判断の物差しとして、長く機能してきたと思えてならない。
 そのことを強く意識したのは、十四年前に四国の公共建築を見て回ったときだ。内子町から車で八幡浜市に向かっていた。目的は八幡浜市役所で活躍した建築家・松村正恒が設計した日土小学校などを見ることだった。
 両側を山にはさまれた谷筋の集落を車で走るうち、身体の中に不思議な感覚がわき上がるのを意識した。そして日土小学校の校庭に立った瞬間に、「ああ、懐かしい」と思ったのだ。もちろん初めて訪れた場所である。しかし、谷筋を流れる川に沿って建つ日土小学校の静謐な空間の中を歩き回るうち、私は私の原風景の中にいた。そこはまさに、谷の底にあるユートピアだった。東京から遠く離れた場所でひとり傑作を設計し続けた松村という人物も、似た原風景の持ち主だったのではないかと直感した。
 振り返ってみると、私が憧れ、敬意を払ってきた人や建築は、すべて中央から距離をおいた批評性をもっている。そして、自分が憧れ、敬意を払うに値する相手かどうかを考えるとき、あの原風景が甦り、それとの整合性を確かめてきたように思えてならない。自分の中にそういう核を植えつけてくれた故郷に、私は心から感謝している。