[対話篇 青→花 6] クリスティアーネ・レーア

こんにちは。青木です。

花田くんが、花田くんなりの理由で、「なので『晶洞(ジオード)』を使うの止めた」と決めたとき、ぼくもぼくなりの理由で、晶洞の写真は止めようと呟いていました。

理由は簡単。晶洞は、模型じゃないからです。晶洞は、模型じゃない。なのに、晶洞をイメージに使う。それでは、まずかろう。
どうして晶洞が模型でないか、と言えば、まあ、あたりまえのことだけれど、晶洞には意図がないからです。晶洞は、ぼくの意図と関係なく、ただそこにあるだけです。
それに対して、模型というのは、やっぱり、意図的なものです。

模型というのは、たとえば、「晶洞がぼくにもたらした感覚と同質の感覚をもった空間というのはこんなものなんではないか」と思いながらつくったモノのことです。ぼくたちは、そうしてできてくるモノに、「どうぞ、それが、その感覚をもたらしてくれますように」と祈ったりする。という点で、模型は、やっぱり、意図的なものなのです。
もちろん、祈りはいつも聞き届けられるわけではありません。というより、たいていは、聞き届けられません。だから、やりなおす。ここがこうだったから、その感覚にならなかったのかなあ。そこを、いったい、どうしたらよかったのかなあ。じゃ、こうしたらいいのではないかなあ。そんなことをとりとめもなく考えて、で、また祈りながら、もう一度つくってみるわけです。
そうして、つくられたモノがもたらす感覚が、自分が望ましいと思う感覚になったとき、「できた!」というわけです。
模型をつくる、というのは、つまり、こういうことです。

そういう模型ですから、模型には、無限のつくりかたがあります。なにも、スチレンボードやスタイロフォームを使う必要はないのです。というより、使う材料次第で、模型はぜんぜん違うものになるのですから、そんなあたりまえの材料を使って、自分から、わざわざ枠組をつくってしまうのは損なことです。

そうそう、1年くらい前、おもしろい展覧会がありました。「クリスティアーネ・レーア展」という展覧会です。Gallery A4、つまり東京の竹中工務店にあるギャラリーで開かれていました。(http://www.a-quad.jp/main.html →「展示」→「アーカイブ」→「2007」)
作品は、主に植物を使ったもので、枝葉や種子を編んでつくった小さなかたちが、いくつも展示されていました。たとえば、そのウェブページの最初に掲載されている「オオアマナの綿毛」ですけれど、これは、中世のヨーロッパ/イスラムの建物の、あのアーチなりなんらかの繰り返しでできた建物を彷彿させなくはありません。でも、そんなことはどうでもよく、この姿に、ぼくなどは、これを何十倍かして実現された空間を想像してしまうわけです。そして、その想像のなかの世界に圧倒される。
クリスティアーネ・レーアさんがそれを「模型」と呼ぶのかどうかということと関係なく、ぼくが「模型」と呼ぶのは、そうした事態を引き起こす、3次元的物体なのです。

ともかく、模型は、なにかを説明するもの、ではなくて、それ自体がなにかであるものです。という意味では、模型と建築を区別することはない。「模型、建築と測りあえるほどに」。

でも、よくよく考えてみれば、これは、なにも、模型に限ったことではない。つくること一般に言えること。小説だって、映画だって、絵画だって、ファッションだって、きっと、同じことなのでしょう。

ということで、では、また。

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