[お知らせ] 登録締切は本日中です

オープンスタジオ2008への登録受付本日(9/30)中で締切ります。
登録し忘れのないよう、気をつけてください。

件名等が正しく書かれていない場合は、上手く受け付けられないこともありますので、
送信前に、もう一度、記載内容を確認するようにしてください。

[お知らせ] 登録受付は明日までです

オープンスタジオ2008への登録受付は明日までです。
これまで、全国の大学、大学院、専門学校のさまざまな学年の方から登録がありました。
参加しようと思っている人は、登録を忘れないように注意してください。

正しく件名がかかれている人には、受付の案内が自動返信で届いています。
10/10頃に登録した人(自動返信が上手く行かなかった人にも)全員に、登録番号をメールにて送付します。
送付後に、このサイト上でお知らせをしますので、また確認するようにしてください。

[お知らせ] 10/4の公開講義&中間講評会

特別講義チラシ


10月4日(土)は、いよいよ公開講義と中間講評会が行われます。

このオープンスタジオに登録した学生も登録していない学生も、
社会人の方も、きっと楽しめると思います。
ぜひご参加ください。


○テーマ:
 模型で考えること

○日時:
 10月4日(土)14:00〜
 (登録は必要ありません。先着順・自由席)

○場所:
 神戸芸術工科大学 吉武記念ホール
    神戸市西区学園西町8-1-1
    神戸市営地下鉄「学園都市」駅下車 徒歩10分 →アクセス方法

○プログラム(いずれも公開):

 14:00〜  青木淳教授による公開講義
 16:30〜  中間講評会( 神戸芸術工科大学の学生作品のみ対象 )


※この公開講義は、2008年度環境・建築デザイン学科特別講義Dでもあります。

[対話篇 花→青 8] 思い出したこと。

ああそうかと思ったことがあったので、少し。

昨年の夏、横須賀美術館に行ったときのこと。山本理顕さんの設計の建物ですね。それを見たかったのはもちろんですが、僕にはもうひとつ目的があって、それは庭に設置された若林奮の作品でした。

僕はこの作家の立体やドローイングが昔から大好きで、それが大きなスケールで外部空間にあるというので楽しみにして行ったんですね。
でも、生意気なようですが、ちょっとがっかりした。

タイトルは「Valleys;2nd Stage」。それが文字通り鉄板でできた谷間として、ランドスケープデザインの一部になり下がっていた、少なくとも僕にはそう見えた。
そこには、たとえば彼の「振動尺」シリーズ、「雰囲気」、「所有・雰囲気・振動」、「森のはずれ」といった作品がもつ詩的な想像力を喚起する力はなくて(学生諸君へ:知らない人は画像検索して下さい)、おしゃれな風景の一部に取り込まれてしまっていた、少なくとも僕にはそう見えた。

酒井忠康の『若林奮 犬になった彫刻家』に「《ヴァリーズ》についての感想」という文章があるけど、もうひとつ曖昧な感想だ。ひょっとしたら僕と似たような印象だったのではないかと勘ぐりたくなる。

で、先日の青木くんからの便りを読んで、去年のこの出来事を思い出したというわけです。

僕らの対話篇での言葉でいえば、「模型」が単純に拡大されて「建築」になってしまった、ということでしょうね。

それじゃあダメだ、両者はあくまでも独立した存在なんだ、という前便の青木くんの言葉で、僕は去年の夏の失望感の理由がわかりました。

自分が好きな空間の「模型」を示せといわれれば、僕は若林奮の立体やドローイングを真っ先に挙げる。

でもその「模型」を僕たちは自分でつくり、拡大コピーではない操作を経て、「建築」を見出さないといけないわけだ。


(なお若林奮の作品を知るには、豊田市美術館のカタログと東京国立近代美術館のカタログがお薦めです。)

[対話篇 花→青 7] ○○、建築と測りあえるほどに。

われながら愚かなことよと思いますが、やっとわかってきました。
学生諸君は何を今頃バカなことを言ってるんだと笑うだろうなあ。

「模型」ってそういうことか。

自分でつくんなくちゃいけないんだ。
そりゃそうだなあ。

「僕、あんなんがいい」と言ってるだけじゃあだめなんだ。
そりゃそうだなあ。当たり前だなあ。

そういう「模型」って、僕、つくったことあるかなあ。

沈黙

な、ないんじゃないかなあ。

われながら絶望的な気分になるなあ。

怖いなあ。

学生諸君が課題で悩んでいると、現代美術のドローイングや作品を見せて、「こんな感じとかいいやんか」、とか気楽なこと言ってちゃダメなんだ。

それにしてもすっきりしたなあ。

「模型は、なにかを説明するもの、ではなくて、それ自体がなにかであるものです。という意味では、模型と建築を区別することはない。」ということね。うん、なるほど。

「模型、建築と測りあえるほどに」。

僕の目標は「言葉、建築と測りあえるほどに」だとあらためて自分を叱咤激励する、と。

学生諸君、いかがですか。

自信湧いたんじゃない?

やるべきこと、わかったね。

そろそろ夏休みも終了です。
10月4日には青木くんが神戸にやって来るよー。

「建築と測りあえる言葉」をあと2週間くらいでまとめないといけないので、取り急ぎ、今日はここまで。すみません。

[対話篇 青→花 6] クリスティアーネ・レーア

こんにちは。青木です。

花田くんが、花田くんなりの理由で、「なので『晶洞(ジオード)』を使うの止めた」と決めたとき、ぼくもぼくなりの理由で、晶洞の写真は止めようと呟いていました。

理由は簡単。晶洞は、模型じゃないからです。晶洞は、模型じゃない。なのに、晶洞をイメージに使う。それでは、まずかろう。
どうして晶洞が模型でないか、と言えば、まあ、あたりまえのことだけれど、晶洞には意図がないからです。晶洞は、ぼくの意図と関係なく、ただそこにあるだけです。
それに対して、模型というのは、やっぱり、意図的なものです。

模型というのは、たとえば、「晶洞がぼくにもたらした感覚と同質の感覚をもった空間というのはこんなものなんではないか」と思いながらつくったモノのことです。ぼくたちは、そうしてできてくるモノに、「どうぞ、それが、その感覚をもたらしてくれますように」と祈ったりする。という点で、模型は、やっぱり、意図的なものなのです。
もちろん、祈りはいつも聞き届けられるわけではありません。というより、たいていは、聞き届けられません。だから、やりなおす。ここがこうだったから、その感覚にならなかったのかなあ。そこを、いったい、どうしたらよかったのかなあ。じゃ、こうしたらいいのではないかなあ。そんなことをとりとめもなく考えて、で、また祈りながら、もう一度つくってみるわけです。
そうして、つくられたモノがもたらす感覚が、自分が望ましいと思う感覚になったとき、「できた!」というわけです。
模型をつくる、というのは、つまり、こういうことです。

そういう模型ですから、模型には、無限のつくりかたがあります。なにも、スチレンボードやスタイロフォームを使う必要はないのです。というより、使う材料次第で、模型はぜんぜん違うものになるのですから、そんなあたりまえの材料を使って、自分から、わざわざ枠組をつくってしまうのは損なことです。

そうそう、1年くらい前、おもしろい展覧会がありました。「クリスティアーネ・レーア展」という展覧会です。Gallery A4、つまり東京の竹中工務店にあるギャラリーで開かれていました。(http://www.a-quad.jp/main.html →「展示」→「アーカイブ」→「2007」)
作品は、主に植物を使ったもので、枝葉や種子を編んでつくった小さなかたちが、いくつも展示されていました。たとえば、そのウェブページの最初に掲載されている「オオアマナの綿毛」ですけれど、これは、中世のヨーロッパ/イスラムの建物の、あのアーチなりなんらかの繰り返しでできた建物を彷彿させなくはありません。でも、そんなことはどうでもよく、この姿に、ぼくなどは、これを何十倍かして実現された空間を想像してしまうわけです。そして、その想像のなかの世界に圧倒される。
クリスティアーネ・レーアさんがそれを「模型」と呼ぶのかどうかということと関係なく、ぼくが「模型」と呼ぶのは、そうした事態を引き起こす、3次元的物体なのです。

ともかく、模型は、なにかを説明するもの、ではなくて、それ自体がなにかであるものです。という意味では、模型と建築を区別することはない。「模型、建築と測りあえるほどに」。

でも、よくよく考えてみれば、これは、なにも、模型に限ったことではない。つくること一般に言えること。小説だって、映画だって、絵画だって、ファッションだって、きっと、同じことなのでしょう。

ということで、では、また。

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