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干拓の国オランダに留学してなによりも驚いたのは山がなくてまっ平らなことでした。牧草地の果ての並木道の向こうにさらに牧草地が続いているのが見えるのです。都市だけでなくて緑地も森もデザインする国、オランダとの出会いはショッキングでした。デルフト工科大学でも都市デザインや歴史といったコンテクストを意識した設計課題が多く、私はかなり苦労しました。でもいつの間にか建築をその周辺の風景や町並みから考えることがとても面白くなってしまって、今ではいろいろな街を歩きながら建物や通りを見ながら暮らしを想像することが何よりの楽しみになってしまいました。
このブログはそんな私の都市・建築観察日記です。

吉良森子 客員教授
moriko kira architect

震災からもう2ヶ月経ちましたね

2011年5月21日 06:42【未分類

皆さん長らくご無沙汰していました。新年度も早くも一か月が経ってしまいました。本年度が皆さんにとって充実した一年となりますこと期待しています。
今年は3月11日の震災があり、きっと不可思議な新学年の始まりだったのではないでしょうか。私も遠くオランダに居ながら、大変ショックを受けて、正直なところ一か月余りあまり何も手につきませんでした。頼りになる二人のスタッフの献身的かつ力強いサポートがなかったら事務所の仕事に支障が出ていたでしょう。
3月11日何も知らずに仕事をしていた私に友人から電話がかかってきて「すぐにテレビを見ろ」というのです。事務所にテレビはないのでまずはとりあえずツイッターをみると、中学生がNHKをストリームしているという情報が。それからというもの私は昼も夜もインターネット漬になり、テレビ、岩上安身さんのユーストリームを介した東電や原子力安全の記者会見の中継、原子力資料情報室の会見を並行して見て、フェリックスと手分けしてニューヨークタイムス、ガーディアン、ルモンド、南ドイツ新聞といった信頼できる新聞をネットで読み漁りました。日本のメディアとは違う情報、見解をツイッターにつぶやき続けました。「安全」を繰り返す日本政府とメディアの情報だけでなく、しがらみのないメディアから発信される複数の情報から複眼的に状況を判断することが必須だと私は考え、それを日本に向けて発信することぐらいしかオランダにいる私にはできないと思ったのです。今から思うとあれがいわゆるインターネット中毒というものなのでしょう。ネットを見る以外に何も集中できず、夜もよく眠れない。ベッドから出るとラップトップを開き、気付くと数時間すぎているという感じでした。

「ホームレス・ホテル」を見学してきました II

2011年2月17日 00:37

16feb11-003.jpg「私たちにとって彼らはゲスト。部屋代を払ってもらって、食事・お掃除・お洗濯のサービスを私たちは提供します。そしてゲストにもゲストしての決まりを守ってもらうのです。お互いの立場を尊重する環境で暮らすことによって、そしてその責任を全うすることによって彼らも自分自身を大切にすることを身につけていく。シェルターで保護されるというのとは根本的に違います。彼らが自立できるようになるまでには様々なサポートが必要だけど、社会復帰というのは自分の責任で暮らすということ。このホテルでの生活がそこに移行していくための最後のステップなの。」
 サンドラさんのバックグラウンドはソーシャルワークではなく、純粋なホテル・レストラン経営。ホームレスホテル以外にアムステルダム北のNDSMという昔の造船所の跡地でボートホテルも経営しておられます。そして彼女の次のプロジェクトは「フルーツケーキ アンド クリスプ」というベーカリー。プロフェッショナルなパティシエと共に社会復帰途上のホームレスの人たちが働くお店の企画です。実は私たちが現在計画中のアムステルダムの高齢者住宅の一階がそのお店の場所の候補に挙がって、都市プロジェクトマネジャーに紹介されたというわけです。経済不況だけでなく、グローバル化によって「モノ作り」が途上国に出て行ってしまったオランダでは構造的に高学歴を前提としたコンペティティブな仕事ばかりになりつつあります。その上自治体も政府も金欠。このような状況ではいわゆる社会的弱者と言われる人たちの社会参加・復帰の場はなかなか生まれない。ですからサンドラさんの企画は貴重だと私は思いました。「ボートホテルにも元ホームレスだった人が何人かメインテナンスなどの仕事で働いています。他のスタッフよりもきめ細やかな指導が求められるし、同じだけの仕事量はすぐにはこなせない。でも少しずつ学んでいく姿を見ていると、何らかの理由で、そして彼らにはどうしようもない理由でこれまで身につけることができなかったことを習得して自立して生活するお金を稼げる場所が、税金や補助金に依存せずに、スモールスケールでもビジネスとして成り立っていけばサステイナブルだと考えているんです。」
 明るくてエネルギーいっぱいのサンドラさん「フルーツケーキ アンド クリスプ」ぜひとも実現させたいものだと思いました!
1  アムステルダムサウス ベルラーヘの都市デザイン 3で説明している住宅法の成立を受けて建築家ベルラーヘがデザインしたアムステルダム南地区。美しい町並みとストリートのデザインで知られています。
2 アムステルダムスクール 20世紀の初めのオランダの建築様式。レンガ、木、石を使った表現の豊かな建築様式。イギリスのアーツアンドクラフトに考え方が似ています。
3 1902年に制定された住宅法はそれ以降住宅地の開発の際にはまずは自治体が都市デザインをつくらなければならないという法律で、良質な住宅・住環境をつくっていくことを目的としている。これは19世紀末中盤以降、産業革命によって都市に急激に労働者が集まり、スラム化した問題を解決しようとする社会主義的な考えを元にしている。ホームレスの問題を解決しようとするムーブメントも同じ考え方を基盤としているといってよいでしょう。

「ホームレス・ホテル」を見学してきました

2011年2月17日 00:37【くらし, たてもの, まち, アムステルダム

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このホテルを経営しているのはサンドラ・シャンディさん。アムステルダムの都市プロジェクトマネージャーに紹介していただきました。彼女は2009年の「ブラック・ビジネスウーマンオブザイヤー」(でも彼女は黒人ではなくインド系!?)レストラン・ホテル経営のプロです。初めてお目にかかった時、「ホームレスホテルってホームレスのシェルターの新しいネーミングですか?」と聞いたら、「違う違う、ほんとうにホテルなの。ホームレスの人たちは保護されているのではなくて、私たちのお客さんなのよ。」とサンドラさんはにっこり。うーん、よくわからない。最近日本でもホームレスの人たちを食い物にした悪質のシェルターが話題になったばかり。とても気になったのでさっそく見学してきました。
「ホームレスホテル ロイスダール」はアムステルダムサウス、ベルラーヘの都市デザインで有名なエリア(1)にありました。建物はシンプルですがアムステルダムスクール様式(2)の建物で、レンガの色合いや窓枠がいい感じです。元々は老人ホームとして作られたそうで、近年は正真正銘のホームレスシェルターだったそうで、一年前にホテルに生まれ変わりました。
サンドラさんはHWO-Queridoという1904年から(オランダの住宅法ができたころです。(3))ホームレスシェルターの運営とホームレスになった人たちの社会復帰を行ってきたNPOと協力してホテルを運営しているそうです。サンドラさんの役割はホテルの経営、NPOはゲストの日々のサポートと役割ははっきり分かれているそうです。
ホテルのカフェテリアやラウンジを見せていただきました。若者向けのバジェットホテルみたいな感じといったらよいでしょうか。シンプルだけど天井が高く、明るくて居心地がよさそうです。お話を伺ったレセプション兼事務所にはゲストルームの鍵を掛ける棚があって、ゲストの写真が貼ってありました。16feb-002.jpgスタッフが早くゲストの顔を覚えられるようにという工夫だそうです。総勢50名のゲスト。老若男女、白人も移民もいて、外見や年齢では傾向はつかめないなと思いました。「ホームレスの人にはいろいろなバックグラウンドの人がいて、もちろんアルコールやドラッグ中毒の人もいるけれど、離婚や離職がきっかけの人もいる。誰でもホームレスになる可能性はあるんです。理由はいろいろだけど、共通しているのは自分の毎日の生活を、そして人生を組み立てることができなくなってしまっているということ。だから朝起きる、ベッドメーキングする、朝ごはんを食べる、というように規則正しく毎日を暮らすことがとても大切で、ゲストは客さんだけど決まった時間に起きて、ベッドメーキングをしないといけないんです。」なんだかユースホステルみたいですね、といったら、「普通の家庭で普通に身につける規則正しい暮らしを身につけてもらう、あるいは思いだしてもらうことが社会復帰の第一歩。」小学生の御嬢さんのいるサンドラさんはちょっとお母さんな顔をしてにっこり。ここに滞在しているのはすでにシェルターを卒業し、ほぼ社会復帰可能と考えられた人たち。昼間は仕事かNPOが組織する様々な活動に参加していて、週末以外は昼間部屋でうだうだすることも禁じられているそうです。ここで滞在しながら住宅を探し、見つかったら完全社会復帰。平均滞在期間は半年ぐらい。アムステルダムはなかなか手頃な値段の住宅がないので皆さん苦労しているようです。

ワークショップを終えて 2

2011年1月17日 15:57【未分類

その当時早稲田大学では200人の学生が一つの課題に立ち向かい、週に一度のエスキースで担当教授や教員と話すために行列をして待ち、講評では多くて10くらいの作品だけがスライド化されて紹介されて教授や教員がコメントをし、残りは提出図面の上のA,B、Cの評価があるだけでした。ですから正直なところ課題に関するデザインのディスカッションはあまりなく、人前でプレゼンテーションすることもほとんどなく、数少ない先生方と話すときは緊張の頂点で、その会話は拙く、自意識過剰で、4年の内藤廣先生に教わった共同設計まで設計に対して気楽に、客観的に話す機会も能力も私にはなかった。ですから大学院時代にオランダデルフト工科に留学した時に図面もろくに描かずに延々と話し続けるオランダ人の学生たちには腰を抜かしました。そして、英語が拙いだけでなく、(今では誰も信じてくれませんが)3人以上の人の前だとあがってしまってしどろもどろになってしまう私は、人前で話す練習を泣きながらするしかなかったのです。

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私がそのころを振り返って思うのは今の自分にとっていくつかの、異なる偶然の出会いが大切だったということです。例えば私が偶然お手伝いをしていた現在スタジオ・ナスカを古谷誠章先生と主宰する八木幸子さんがとても熱心な方で、早稲田大学の枠を超えて手伝いに行っておられたことがきっかけになって東大生産研究所の原広司研に手伝いに行ったこと。都市と建築の物理的な関係にとても興味がある自分を偶然ながら発見し、どこかその延長線上に今の自分があることを感じています。ワークショップでも話をした内藤廣先生の共同設計も貴重な経験でしたが、デルフト工科大学のコールハースのスタジオで何のためらいもなく広範囲の地図や鳥瞰図の上にトレペを載せてアイディアをスケッチし、今から思うと勝手なシナリオをまくしたてたことやベン・ファンベルケルの事務所で様々なテクニックを使って感覚的な模型を作り続けたことなども今思うとたいせつだったかなと。何があとになってかけがいのない何かになるかは当時知る由もなく、いろいろな事務所にバイトに行ったり、コンペをしたり、本を読んだり、旅行をしたり、とにかくいろいろ自由に全力で向かっていって様々な出会いに身をゆだねる毎日の中から自分の気持ちと理性と体に何かがゆっくり蓄積されていったのかなと思います。どこにでも行けて、なんでも試すことができる時間的な自由が学生時代だったからできたことだと思います。

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今、日本の産業構造、特に建設業は大きな変化の真っただ中にあります。そして日本社会は前代未聞の高齢化社会を迎え、アジア諸国との関係は大きく変わってきています。これは建設業と深くかわかる建築家にとって職能の枠組みの大きな変化を意味し、既存の考え方では私たち建築家が社会で何をできるのか単純には思い描けない状況にあり、それは私のように設計に携わる者にとっても、学校で教える先生にとっても、学生の皆さんにとってもたいへんな不安材料です。正直私もとても不安ですが、同時に変化は常にどこかに新しい可能性を連れてくるはずとも思っています。

私が学生の皆さんに言えることといえば、バブルの頂点で将来を模索していた私も恐ろしく不安だったということぐらいです。仕事を得る、収入を得る、ということ以上に自分が世の中でどのようなかけがえのないことができ、充実した毎日をおくることができるのか、そこにどうやって到着するのか、という問いを30歳過ぎるまで考え続けていたように思います。だから遠回りかもしれないけれど、学生の間、もっている自由を意識して、(古い言葉ですが)謳歌してください。その先にしか答えはないと私は思います。

ワークショップを終えて 1

2011年1月17日 15:57【未分類


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一週間にわたるワークショップが終わり、昨日東京に帰ってきました。私自身独立してから日本の学生の皆さんとこれほど集中してコミュニケーションしたのは初めてかもしれません。お疲れ会に参加し、(皆さんのノリに圧倒。あんなに学生時代って楽しかったっけ、と。関西のノリっていうのもあるのかも。)私自身の学生時代やそれからのことなど思い出しました。

実はこのワークショップ前に最近の学生さんは傷つきやすく、消極的で、本を読んで知識を習得したり、手を動かしたりすることが苦手だと日本で教える友人たちからかなり忠告されていたのです。ですから、思いっきり考えたことを言い合うことが当たり前のオランダで仕事をしているので、私は皆さんとうまくコミュニケーションできるかが何よりも心配でした。そこで、良い・悪いという判断ではなく、私の目には皆さんがやっていることはどのように認識されるか、そして「設計」という一つの一貫した全体へ展開するまでにどのような可能性があるのか、どのような媒体、スタディが有効だと私は考えるか、をできる限りわかりやすく話していこうと思いました。

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簡潔に言うと私にとってワークショップの結果はとても嬉しいものでした。その理由は三つ。それぞれのグループが与えられた課題・アムステルダムの街から感じ取ったことを基点としたこと。ディスカッションを通してデザインを展開し、修正し、課題から逃げずに具体的な建築的提案を提示したこと。そしてその結果様々な提案が生まれたこと。私はこれまでローカルな条件に目を向け、課題に誠実に立ち向かい、建築の妥当性を追求していくことを設計者の基本姿勢として意識してきましたから、私が皆さんにワークショップで伝えることがあるとしたらそんなことかな、と思っていたので、私の思いは少なからず皆さんに届いたのかなと思った次第です。

人の気持ちを察し、お互いを気遣う人たちというのがワークショップでの皆さんの最初の印象でした。そして考えていることを素直に説明しようと努力している様子に好感をもちました。正直なところ、若い日本の人はあたかも自分の周りに膜が張っているかのように周りに対して無神経というよりは無感覚で、自分の価値観でしか物を見ず、価値観の枠組みを広げる努力をしないという印象が私にはあります。神戸芸工大学のカルチャーなのか、ワークショップ参加者がたまたまそうだったのかわかりませんが、今回のワークショップではそういう印象はなく、お互いを尊重しながら心地よくコミュニケーションすることができ、誤解はあるかもしれないけれど、言ったことを受け止めようとしてくれていることを感じ、私にとっても有意義なエクスチェンジでした。

そんなわけで、果たして私は学生時代皆さんのように周りに対して、先生に対して素直に心を開こうとしていただろうか、なんてことを考えてしまったわけです。80年代後半私が勉強していたころ建築界は広い意味でのポストモダニズムが建築界に浸透し、伊東豊雄さんの「遊牧東京少女パオ」に象徴されるような新しい都市文化・都市生活をリフレクトする建築が話題になり、ピーター・ウィルソン、ナイジェル・コーツ、ザハ・ハディドなどのロンドンAAスクール出身の建築家が日本に招かれ作品をつくり、今から思えば有名建築家のセレブ化が始まっていました。そして大学院時代、圧倒的なデコンブームを体験するのです。けれども学生の作品の多くはまだまだ戦後モダニズムの枠組みにがっちりはまり、発想が自由だったとは言えなかった。確かにみんなたくさん図面を描き、建築のことをよく勉強し、磯崎新の本を読み、設計事務所でバイトし、競争心に溢れていたように思いますが、個人の感覚・感性を建築化しようとする傾向はまだ弱く、コンピューター前の時代だったということもありますが、プレゼンテーションも感覚的というよりはテクニカルで固い表現を主流としてそこから解き放たれようとする糸口を模索しようとしていたのだと思います。モダニズムの最期をポストモダンとデコンが解体していくのを目撃した世代と言えるかもしれません。
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「隠れ教会博物館」館長インタビュー

2010年12月21日 22:47

 12月16日のワークショップ課題説明は面白かったです。スカイプを通してのプレゼンテーションも直前までいろいろ技術的なトラブルがあってどうなることかと思いましたが、神戸芸工大学からの映像も繋がり、佐々木宏幸先生のクールな進行は、ちょっと「ゆく年くる年」のような気分だなあと思いました。
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 翌日の17日は「隠れ教会博物館」の館長さんにインタビューに行きました。その日はオランダでは珍しく雪が降り、キャナルハウスの屋根にも道端に置いてある自転車にも雪が積もってクリスマス気分いっぱいでした。隠れ教会の館長さんはとてもエレガントな女性の館長さんです。とてもしずかにお話になられるので、ワークショップの資料として本日公開したビデオではちょっと聞き取りにくいかもしれませんが、まずはとりあえずビデオをトライしてみてください。
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館長さんには以下の質問をしました。
1 年間10万人近いビジターが訪れる「隠れ教会」。その魅力は何でしょうか?
2 ビジターの感想は?
3 この「隠れ教会」が人々に伝えたいと思っているメッセージは何でしょうか?
4  現状の博物館の一番の問題点は何ですか?
5 エクステンションの計画を始めたときに建築家に何を依頼しましたか?
6 建築家には細かい要求をしましたか?それとも建築家の自由な意見を期待しましたか?
7 館長さんにとって理想的な「隠れ教会」の建物とエクステンションの建物の関係は何ですか?
8 「隠れ教会」の建物は私たちが勉強した近代建築以降の建物とは違ってとても複雑でわかりにくい建物です。新しいエクステンションの建物はそれと違う建物でしょうか?それとも似たような建物?
9 ビジターはまずエクステンションの建物に入ります。その時、隠れ教会の建物のことを感じ取る必要があるのでしょうか?それとも?
10 教会の礼拝堂は19世紀の状態に修復したと聞きました。なぜ教会が建てられた17世紀の姿に修復しなかったのですか?
11 この教会は、そしてこれから造られるエクステンションの建物は周辺の町にとってはどんな存在であってほしいと思いますか?
まずはビデオを見て、館長さんのお話を直接聞いてみてください。
私にとって印象深かったのは、「隠れ教会は17世紀につくられた貴重な文化財の建物ですから、この建物の中に入るということは、レンブラントの夜警を見にいくのと同じことです。大きく違うのは、美術館ではまず入場券を買って、コートをしまって、それからゆっくりと展示室に入ってレンブラントの絵を見ることになるのですが、現在の隠れ教会博物館では、切符を買う時にはもうすでに17世紀の建物の中に入っていて、ちゃんとコートをかける場所もなく、狭い階段をわけもわからずに登っていって、気づくと大きな礼拝堂に来てしまうのです。ですから、エクステンションの建物をつくることで、17世紀の建物に入る前に、まずチケットを買い、濡れたコートを脱いで、気持ちの準備をしてから、この隠れ教会がどんな建物で、どんな歴史があるか、を皆さんに知ってもらってから隠れ教会の建物を体験してもらいたいと思っています。」と館長さんがおっしゃられたことです。
そして、周辺の町に対しては隠れ教会は文字通り隠れた教会として古い歴史を伝え、新しいエクステンションは21世紀の建物として、このアムステルダム中世核エリアのこれからの重要なパブリックの建物としてオープンな、そしてこのエリアの将来を示す建物であってほしい、ともおっしゃっていました。
実は私は明日、東京に出発します。ということで、今館長さんの質問、一つ一つを説明することができないのです。皆さんがブログで質問していただければ、ブログで逐次説明していくようにします。
また、明日には路地向かいの既存の建物の内観写真を資料として公開しますので、お楽しみに。


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バカンスの功罪

2010年8月12日 19:09【くらし, オランダ, 未分類

 今週いっぱいでオランダの建設業界の一か月の夏休みが終わります。この間決断できるメンバーの揃う会議を開くことは不可能ですし、工事現場もほぼ完全停止です。外部とのコミュニケーションなしにゆっくりとスタディをし、資料を集めるためには理想的な一か月ですが、プロジェクトの継続、経営的には危険な一か月です。電話をしても誰もいないし、資材も集まらない。ほとんど一人ですべてをこなしていた独立したばかりのころはじっくりと物事を考えることのできるとても有意義な期間でしたが、所員を雇うようになってからは外部とのコミュニケーションができないので、事務所を開いていても無意味であることを悟り、思いきって3週間事務所を閉鎖することにしました。オランダの建築家労働協定で義務付けられている年間6週間の休暇の半分はここで全員一緒に消化してもらいます。本当は休暇の時期を強制することは違法なのですが、小さな事務所でみんながばらばらと3週間休んだらやっていられません。年末年始も強制的に最低一週間休み、春、秋にプロジェクトの進行状況に合わせて一週間休みを取ってもらって有給休暇を消化する。これで私は何とか労働協定に沿ってやっています。
 この結果、オランダでは年に2度人工的にプロジェクトのプロセスにストップがかかります。現場も設計も。クライアントはそのブレークの前に基本設計、実施設計、入札、あるいは竣工などなど終わらせようとします。中途半端に後に残るとバカンスから帰ってきて半分記憶喪失になっている人たちが中途半端なことをするのを嫌がるからです。実際に夏の一か月の空白の後なにかと問題となるプロジェクトは多く、事務所を主宰するものとしてはリスクをなるべく抑えて、できる限りコントロールした形で夏休みを迎えるようにと心を砕きます。それに追い打ちをかけるように、この一ヶ月間は仕事をしないので当然収入もなく、夏休み前にはバケーションマネーの支給もあり、小さなアトリエ事務所の主宰者の心労はかなりなものです。バケーションだと言うだけで無理やり生まれたデッドラインの波状攻撃と同時に、誰もがストレスがたまっているせいかコンフリクトも多く、そこここで火消しにあけくれ、オンタイムに設計料が払われるように手配する。
 それでも私はバカンスが建築事務所にとってプラスだと信じています。若いスタッフは半年前から安いチケットを探してアジアへ、南米へ、アフリカへと旅行を企画して一回り大人になって事務所に戻って来る。あるいは普段時間に追われて不足しがちな家族とのコミュニケーションをとってくる。私も休暇が始まるとたいていは寝込んでしまいますが、そのあとは誰からの電話もかかることなく、自由な時間が過ごせる。ほとんど強制されなければ決してこんな状況を自己選択はしませんが、これも一つの文化と思っています。

このブログに関連した記事が日経アーキテクチャー8月9日号の「世界に飛び出す就職氷河世代」に掲載されています。

敗北の心の傷み

2010年7月12日 21:45【オランダ, ヨーロッパ , 未分類

 マドリッド航空を離陸し、オランダ、アムステルダム空港に向かっています。マドリッド工科大学でワークショップをするフェリックスを訪ねて、週末を一緒にスペイン北部カンタブリア地方の港町サンタンデールで過ごしました。アムステルダム行きの飛行機に搭乗すると、オランダ航空のスチュアーデスはまずスペインチームの勝利をたたえ、機内からは一斉に拍手が沸き起こりました。12july10 001.JPG昨晩のオランダ対スペインの死闘を私は偶然マドリッドで見ることとなったのですが、全力を出し切って負けたオランダチームを見守ったオランダの人たちもスペインチームを心から祝福していることだろうとどこまでも続く、乾いた赤銅色のスペインの大地を見ながら今思っています。

 昨晩は思ったような試合展開でした。激しくボディチェックをしながら、丁寧にスペインの攻撃の芽を摘み、チャンスを探し出しては攻撃。反則ぎりぎり反対側のプレーをするオランダチームに、ブラジルのように自分を見失うことなく、サッカー王国の精神的、技術的、肉体的力を最期の最期まで示し続けたスペイン。それに対して一瞬たりとも集中力を失うことなく、冷静に戦い続けたオランダ。私はドキドキしながら、オランダを応援しながら、世界最高峰のプレーを目の当たりにすることのできる幸せをかみしめ、満喫しました。そして、7つのイエローカードとレッドカードを要し、ロベンの決定的チャンスを生みだしながらもキーパーに守りきられたオランダは、限界まで挑戦し、そして負けました。

 サンタンデールから私たちがマドリッドに戻ってきたのは試合が始まる1時間半前の7時ごろ。今回のワールドカップ、真摯な日本チームサポーターだった私は、心のどこかでオランダの決勝戦ムードに疎外感を感じていて、ホテルの部屋で見てもいいかなと実は思っていたのです。でも、車がコロン広場近くを通過した時、大きなスペインの旗をなびかせてrojaのコスチュームに身を固めた群衆が集まっていくのを見た瞬間、私の心臓はバクバクと鼓動し始め、スペインとかオランダとか日本とか関係なく、一刻も早く通りを歩きたいと思いました。急いでホテルにチェックインをして近くのバールにいくと続々と人が集まって来ていて、若者たちはすでに声をそろえて次から次に歌を歌って気勢を上げていました。応援のチームワークがこれまたすごい。アムステルダムでも美術館広場にオランダ全国から人が集まって、一面オレンジ色です。

日曜日はワールドカップ決勝です!

2010年7月 9日 23:29【くらし, まち, アムステルダム, オランダ, 未分類

 ワールドカップも決勝のみを残すところまでやってきました。オランダは一週間前に1998年以来の悲願だったブラジル打倒を果たして以来たいへんなことになっています。誰もが超忙しい夏休み前、一か月前に選挙が終わったというのに連立政権がまだまだ成立しそうもない政治不安の真っ只中、そして不況から回復するどころか長期泥沼状態になり、誰もが夏休み以降はさらにひどくなりそうだと内心思っているのに、正直なところ、私自身も含めて、もうそんなこと、ふっとんじゃったみたいです。

 ワールドカップは不思議です。サッカーはすごく面白いスポーツで、テクニック、戦略、アクシデント、肉体美、空間性などなどすべて入った総合スポーツ芸術だと思います。でもワールドカップのインパクトってスポーツを超越しているように思います。国民性とか文化といったようなコレクティブなアイデンティティにまで及んでしまうような。

 日本に生まれて育った私にとっては相撲と野球が身近なスポーツで、(そうです、私はスポーツをするのも見るのも大好きです。肉体と精神と空間の瞬間的な関係性を体感することは何よりもの快感なのです、私にとって)オランダに住むようになってサッカーが私の日常生活のリズムと感覚に組み込まれるまで数年かかりました。そしてやっと面白く思えるようになったころ1998年ワールドカップフランス大会が開催されました。その時のオランダチームにはクライフェルト、ベルフカンプなどなど、キーパーはファン・デル・サールがいて、今年のオランダチーム以上にレベルが高く、快進撃をしていたのですが、勝てば勝つほどほど、'街'の雰囲気が変わっていくことに気付いたのです。誰もがオレンジ色の服を着るとか、町中オレンジのデコレーションとか、そういうことだけではなくて、空気が変わっていった。私自身も高揚してたせいかもしれないですけど、道行く人の興奮が街を満たしているような感じで、コンサートが始まる直前のコンサートホールの雰囲気がずっと続く、といったらわかっていただけるでしょうか。そしてアルゼンチンに勝ってベスト8になった時のことは忘れられません。ベルフカンプのゴールの瞬間、駆け抜ける歓声で町は震え、試合後は車のクラクションと自転車から叫びながら走り回る人と運河からはボートで騒ぐ人で一晩中大騒ぎでした。都市空間のダイナミズムって立体的に音で認識できるんだなあ、としみじみと思ったことを今でもよく覚えています。先週のブラジルに勝利した後はちょうど同じような感じでした。サッカーのアーバンで空間的なインパクトは、民衆が街路でボールをけることから始まったサッカーというスポーツのDNAなんだろうなと私も夜更けまで興奮する町の空気を満喫しました。でも、ここまではまだ理解可能な、フィジカルなインパクトの話です。でも、もしもオランダが日曜日にスペインに勝ったら、その時に起こるのはそんなことではないのです。

祖母へのオマージュ

2010年6月22日 23:53【くらし, たてもの, プロジェクト, 未分類

 パリのシャルルドゴール空港の2Fターミナルでアムステルダム行きの飛行機を待っています。10日前に祖母が亡くなり急遽日本へ帰国をしたのですが、なるべく有効に時間を使おうと夜遅く成田を発ち、早朝(朝4時!)にパリに到着する便で戻ってきたのです。

22juni10-01.jpgアムステルダム行きの飛行機は2Fターミナルから出発します。空港のゲートは通常特徴のない通路に配列されていて味気ないものですが、ここはガラスで覆われた鉄骨構造の大空間から搭乗するようになっていて、パンチドメタルを通して拡散された柔らかい光の溢れる陰影のない空間は、旅立ちのロマンスがあっていいなあとはいつも私は思います。もちろん夏の昼間は正直かなり暑いのですが、今朝は日の出の時間に重なり、ゆっくりとラウンジは明るくなっていってうっすら色づく水平線を見ながら私はちょっとメランコリックな気持になりました。今年103歳になる祖母の葬儀を済ませ、私が設計者として関わった、彼女が友人たちと最期の7年間を暮らした神奈川県真鶴町の共同住宅の将来を考える話し合いを始めた今回の滞在は私がこうして建築の仕事をしている背景には祖母の影響が大きかったということを改めて実感した日々でもありました。そこでアムステルダムと東京の間の夜とも昼ともつかない空の上を漂いながら書いた祖母の思い出を紹介させてください。

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