» 2011年1月

ワークショップを終えて 2

2011年1月17日 15:57【未分類

その当時早稲田大学では200人の学生が一つの課題に立ち向かい、週に一度のエスキースで担当教授や教員と話すために行列をして待ち、講評では多くて10くらいの作品だけがスライド化されて紹介されて教授や教員がコメントをし、残りは提出図面の上のA,B、Cの評価があるだけでした。ですから正直なところ課題に関するデザインのディスカッションはあまりなく、人前でプレゼンテーションすることもほとんどなく、数少ない先生方と話すときは緊張の頂点で、その会話は拙く、自意識過剰で、4年の内藤廣先生に教わった共同設計まで設計に対して気楽に、客観的に話す機会も能力も私にはなかった。ですから大学院時代にオランダデルフト工科に留学した時に図面もろくに描かずに延々と話し続けるオランダ人の学生たちには腰を抜かしました。そして、英語が拙いだけでなく、(今では誰も信じてくれませんが)3人以上の人の前だとあがってしまってしどろもどろになってしまう私は、人前で話す練習を泣きながらするしかなかったのです。

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私がそのころを振り返って思うのは今の自分にとっていくつかの、異なる偶然の出会いが大切だったということです。例えば私が偶然お手伝いをしていた現在スタジオ・ナスカを古谷誠章先生と主宰する八木幸子さんがとても熱心な方で、早稲田大学の枠を超えて手伝いに行っておられたことがきっかけになって東大生産研究所の原広司研に手伝いに行ったこと。都市と建築の物理的な関係にとても興味がある自分を偶然ながら発見し、どこかその延長線上に今の自分があることを感じています。ワークショップでも話をした内藤廣先生の共同設計も貴重な経験でしたが、デルフト工科大学のコールハースのスタジオで何のためらいもなく広範囲の地図や鳥瞰図の上にトレペを載せてアイディアをスケッチし、今から思うと勝手なシナリオをまくしたてたことやベン・ファンベルケルの事務所で様々なテクニックを使って感覚的な模型を作り続けたことなども今思うとたいせつだったかなと。何があとになってかけがいのない何かになるかは当時知る由もなく、いろいろな事務所にバイトに行ったり、コンペをしたり、本を読んだり、旅行をしたり、とにかくいろいろ自由に全力で向かっていって様々な出会いに身をゆだねる毎日の中から自分の気持ちと理性と体に何かがゆっくり蓄積されていったのかなと思います。どこにでも行けて、なんでも試すことができる時間的な自由が学生時代だったからできたことだと思います。

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今、日本の産業構造、特に建設業は大きな変化の真っただ中にあります。そして日本社会は前代未聞の高齢化社会を迎え、アジア諸国との関係は大きく変わってきています。これは建設業と深くかわかる建築家にとって職能の枠組みの大きな変化を意味し、既存の考え方では私たち建築家が社会で何をできるのか単純には思い描けない状況にあり、それは私のように設計に携わる者にとっても、学校で教える先生にとっても、学生の皆さんにとってもたいへんな不安材料です。正直私もとても不安ですが、同時に変化は常にどこかに新しい可能性を連れてくるはずとも思っています。

私が学生の皆さんに言えることといえば、バブルの頂点で将来を模索していた私も恐ろしく不安だったということぐらいです。仕事を得る、収入を得る、ということ以上に自分が世の中でどのようなかけがえのないことができ、充実した毎日をおくることができるのか、そこにどうやって到着するのか、という問いを30歳過ぎるまで考え続けていたように思います。だから遠回りかもしれないけれど、学生の間、もっている自由を意識して、(古い言葉ですが)謳歌してください。その先にしか答えはないと私は思います。

ワークショップを終えて 1

2011年1月17日 15:57【未分類


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一週間にわたるワークショップが終わり、昨日東京に帰ってきました。私自身独立してから日本の学生の皆さんとこれほど集中してコミュニケーションしたのは初めてかもしれません。お疲れ会に参加し、(皆さんのノリに圧倒。あんなに学生時代って楽しかったっけ、と。関西のノリっていうのもあるのかも。)私自身の学生時代やそれからのことなど思い出しました。

実はこのワークショップ前に最近の学生さんは傷つきやすく、消極的で、本を読んで知識を習得したり、手を動かしたりすることが苦手だと日本で教える友人たちからかなり忠告されていたのです。ですから、思いっきり考えたことを言い合うことが当たり前のオランダで仕事をしているので、私は皆さんとうまくコミュニケーションできるかが何よりも心配でした。そこで、良い・悪いという判断ではなく、私の目には皆さんがやっていることはどのように認識されるか、そして「設計」という一つの一貫した全体へ展開するまでにどのような可能性があるのか、どのような媒体、スタディが有効だと私は考えるか、をできる限りわかりやすく話していこうと思いました。

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簡潔に言うと私にとってワークショップの結果はとても嬉しいものでした。その理由は三つ。それぞれのグループが与えられた課題・アムステルダムの街から感じ取ったことを基点としたこと。ディスカッションを通してデザインを展開し、修正し、課題から逃げずに具体的な建築的提案を提示したこと。そしてその結果様々な提案が生まれたこと。私はこれまでローカルな条件に目を向け、課題に誠実に立ち向かい、建築の妥当性を追求していくことを設計者の基本姿勢として意識してきましたから、私が皆さんにワークショップで伝えることがあるとしたらそんなことかな、と思っていたので、私の思いは少なからず皆さんに届いたのかなと思った次第です。

人の気持ちを察し、お互いを気遣う人たちというのがワークショップでの皆さんの最初の印象でした。そして考えていることを素直に説明しようと努力している様子に好感をもちました。正直なところ、若い日本の人はあたかも自分の周りに膜が張っているかのように周りに対して無神経というよりは無感覚で、自分の価値観でしか物を見ず、価値観の枠組みを広げる努力をしないという印象が私にはあります。神戸芸工大学のカルチャーなのか、ワークショップ参加者がたまたまそうだったのかわかりませんが、今回のワークショップではそういう印象はなく、お互いを尊重しながら心地よくコミュニケーションすることができ、誤解はあるかもしれないけれど、言ったことを受け止めようとしてくれていることを感じ、私にとっても有意義なエクスチェンジでした。

そんなわけで、果たして私は学生時代皆さんのように周りに対して、先生に対して素直に心を開こうとしていただろうか、なんてことを考えてしまったわけです。80年代後半私が勉強していたころ建築界は広い意味でのポストモダニズムが建築界に浸透し、伊東豊雄さんの「遊牧東京少女パオ」に象徴されるような新しい都市文化・都市生活をリフレクトする建築が話題になり、ピーター・ウィルソン、ナイジェル・コーツ、ザハ・ハディドなどのロンドンAAスクール出身の建築家が日本に招かれ作品をつくり、今から思えば有名建築家のセレブ化が始まっていました。そして大学院時代、圧倒的なデコンブームを体験するのです。けれども学生の作品の多くはまだまだ戦後モダニズムの枠組みにがっちりはまり、発想が自由だったとは言えなかった。確かにみんなたくさん図面を描き、建築のことをよく勉強し、磯崎新の本を読み、設計事務所でバイトし、競争心に溢れていたように思いますが、個人の感覚・感性を建築化しようとする傾向はまだ弱く、コンピューター前の時代だったということもありますが、プレゼンテーションも感覚的というよりはテクニカルで固い表現を主流としてそこから解き放たれようとする糸口を模索しようとしていたのだと思います。モダニズムの最期をポストモダンとデコンが解体していくのを目撃した世代と言えるかもしれません。
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