Logbook:Yoshiaki Hanada
2000年12月〜2001年3月

2001-3-30(Fri) 『暮しの手帖』

 昨日、今日と、わが家が雑誌『暮しの手帖』編集部の取材を受けた。電話のやりとりをとっても、送られてきたファックスを見ても、そして編集部の方と実際にお会いしても、どれをとっても「ああ暮しの手帖だ」と感激した。2日間かけた丁寧な取材で、こちらの方がへばり気味。今日は共同設計者の三澤文子さんも合流。『暮しの手帖』ファンの学生が、昨日は2名、今日は1名参加した。どんな誌面になるのか、不安と期待でいっぱいです。

 

2001-3-28(Wed) GOさん

 吉本剛さん設計の最新作の住宅を見せてもらった。急勾配の住宅地にたつコンクリートの箱である。内部は間仕切りを徹底的に少なくした立体的なワンルーム。うーん、僕はちょっと暮らせないなあと思ったりする。しかし相変わらず力強い。やろうと思えば納まりよく間仕切れるようなプランになっているところも彼らしい。

 

2001-3-27(Tue) 最後に 

 卒業式。
 僕は今年の4年生たちが入学した年に芸工大へ来た。
したがって、あれから4年たったんだと自分を振り返る機会にもなりました。ほんとにあっという間だなあ。みんな元気でやってほしい。 夜は謝恩会へ。ふだんあまり上手にコミュニケートできなかった学生で、最後にちょっと話しかけてくるようなやつもいて、ああよかったと思ったりした。

 

2001-3-26(Mon) やっと自分のことが

 ついに春だ。歳をとったせいでしょうか、最近は春が来るのが待ちどうしい。近所の公園は梅が満開。桜の蕾もふくらんでいる。ふもとの(笑)街では、気の早い桜が咲き始めた。

 この1週間、やっと 大学の諸々の用事から解放され、自分のことができるようになりました。

■3/20 雑誌『国際建築』等の編集者として有名な故・小山正和氏の御親族の方々へのインタビューが実現した。かつて同誌の編集者として活躍した田辺員人さんにも御同席いただき、貴重な時間となった。今年のわが研究室の修論からの展開である。もう少しじっくり調べて、『国際建築』論、小山正和論を書いてみたい。
■3/21 建築学会で『資料集成』編集の打ち合わせ。そのあと、ギャルリー・タイセイで「堀口捨己展」。
■3/22 山隈直人さんと設計した住宅の上棟式。空間が立ち上がってきて、とても嬉しい。かなり「ふつう」の家になっているが、これはこれで結構いいじゃないか、と自画自賛。山隈さんもきっと同じ気分だ(おそらく)。こういう能天気さが建築家には必要かも。
3/24 わが家の庭の土の部分全体に芝生をはった。木は相変わらずオリーブが一本だけ。いろいろ考えるのだが、なんだかこれで完結しているとしか思えなくて、別の場所に植樹する案を思いつかない。隅っこに土を少し残し、花畑と野菜畑にするつもり(妻は)。
■3/25  山隈直人さんと設計中の細長敷地の住宅の打ち合わせ。住み手の家にお邪魔して、今の暮らしぶりを観察させてもらいながらの話し合い。こちらのお勧め案に無事着地して、実にスムースに進んでいる。駅からも近い下町である。すぐそこにいろんなお店があって、都市で暮らす楽しみがいっぱいである。山の上のわが家との違いが身にしみる。ちょっと羨ましい。こういう場所を選んだ若いお二人にふさわしいのはどんな家か。あれこれ考えていると本当に楽しい。

 今日は、建築学科の同級生・黒石いずみさんの『「建築外」の思考 今和次郎論』(ドメス出版)の短い書評を書き終えた。いろんな人のいる学年で、嬉しいなあ。
 岩波新書『学力があぶない』(大野晋、上野健爾)を読んでいる。教育方法をあれこれ考えるのは楽しいことだし、「いじりがい」のある分野だと思うのだが、日本の教育体系は、どうしてこんなにつまらない方向にしか向かわないのか。寂しい気分になってしまう。

 

2001-3-16(Fri) 楽しいこと、あれこれ

 あいかわらず学年末特有の大学の仕事が多く、すぐにあいだがあいてしまう。
 
 細長敷地での住宅の設計を進めている。山隈さんといろんな案を出し合っては議論、議論。僕の方は納まりのいい平面をつい作ってしまうのだが、彼はそこに何か変なことを仕込もうとする。そのあたりの体質の差をお互い茶化しながら、いくつかの可能性を探っていくのはとても楽しい。BBSでの話題に出た「バグとり」作業のひとつだと僕は思う。
 今日は、彼と設計したもう一軒の住宅の現場へ。ベタ基礎のコンクリート打ち。1週間後は上棟式。 ものができていくのを見ているのは、やはり、とても楽しい。
  『新しい住まいの設計』掲載用に、わが家「渦森台ハウス」の将来の使い方のスケッチをかいている。予想通りにはいかないだろうが、いろいろと未来に思いを巡らすことは、とても楽しい。
ただ、それは自分が歳をとることでもあるのがちょっと寂しいけど。
 伝統ある某家庭雑誌からわが家「渦森台ハウス」への掲載依頼がきて、とてもとても感動している。また詳しく書きます。

 わが家の殺風景な庭の土の部分に芝生をはることにした。子供達が掘った巨大な穴を埋め戻すのは残念だが、一部には穴掘り兼畑用の地面を残しておくつもり。24日(土)です。暇なひと手伝ってくれませんか(笑)。

 

2001-3-9(Fri) 三寒四温

 ずいぶんさぼってしまいました。学年末、学期末の慌ただしさと、BBSの方への書き込みで、あっという間に時間が過ぎてしまいます。

 この3週間ほどのあいだの、お話できる(笑)できごとは、せいぜい以下のようなところです。あとは、教師ならではの学年末、学期末特有のあれやこれや、家族とのどこにでもあるすったもんだ。

■2/17 修論発表会。僕の研究室初の院生は、雑誌『国際建築』についての論文を発表。BBSでも話題がでていましたが、なかなかの力作で吉武賞を受賞しました。おめでとう。
■2/18 BBSの方でおなじみの「わたなう゛ぇ」
さんと偶然に某所で初めて会った。向こうから声をかけてきてくださったのだが、大学でいつも見かけるようなお姿ゆえ、いったいどこの学生さんかと慌ててしまった。こういう出会いは嬉しいなあ。
■2/23 わが家「渦森台ハウス」で研究室の打ち上げ。院生、4年生、3年生の新ゼミ生。鍋料理でおなかいっぱい。
■2/24 わが家「渦森台ハウス」に、雑誌『新しい住まいの設計』の取材。これまで3つの建築雑誌の取材を受けたけれど、書架の本をこんなに編集の方がじっくりと眺めていたのも初めてで、結局最後は、歴史書や哲学書の話で盛り上がって意気投合。楽しかった。どんな誌面になるだろうか。楽しみ。
次の住宅の設計の仕事の打ち合わせ、1回目。とんでもなく細長い敷地である。山隈直人さん
と共同設計で進めていく。
■3/1   以前から設計してきた住宅の地鎮祭。いろいろあったがやっと着工。こちらも共同している山隈さんと、これまでの互いの努力を称えあう(笑)。
■ 3/2〜4 神戸・六甲アイランドのファッションミュージアムにて、卒業制作展。
■3/5   今度の仕事の住宅の敷地を山隈さんと見に行く。うーん、細長い。
わりに近そうだということで、安藤忠雄の「住吉の長屋」を探しに行く。友人に電話で場所を教えてもらいながらとうとう発見。正面側は思っていたより小さく感じた。驚いたのは後ろ側。これは御存知の方もいらっしゃるようだが、発表されてきた図面とは一部かたちが違うのである。隣が駐車場に変わっていて、外壁が丸出しになっている。うーん、なんなのだこれは。
■3/8  共同したMsの三澤文子さんに、「渦森台ハウス」のこの冬のレポートを送付。この観察結果をもとに、さらに計測や改良を加えていきたいと考えている。

 そんなこんなで、今は、大学の今年度最後の種々の雑事、原稿、新しい住宅のスケッチ等に追われています。

 昨日から冬に逆戻りしていて、今朝はあたり一面うっすらと雪化粧。昼間大学にいると、家から「雪が積もっているから、早くしないと帰れなくなるかもよ」との 電話。慌てて戻ってきたら、三宮あたりではどうということのなかった天気が、阪急神戸線・御影駅から一気に吹雪に変化した。急な坂道を車でそろそろ家に辿り着いたら、数センチの積雪でした。この冬一番の大雪で、標高300mの驚異です。

 

2001-2-14(Wed) 卒業制作講評会

 卒業制作漬けの一日。まずは午前中に各教員の採点を集計し、学科全教員で慎重に議論。順位や各賞の決定。昼過ぎにそれを学生に発表。2時から講評会がスタートした。ふだんの実習のように全員ではなく、上位の10数名だけを時間をかけて講評する。しかも面白そうな2人をペアにし、教員側もペアごとに2人の講評責任者を決めておく。昨年からこういう方式にしているが、議論を白熱させる効果は大。
  6時頃までかかってすべて終了。ゲストの方々や1年から4年までの多くの学生も参加し、とてもいい講評会だったと思います。ただ、今年の作品に関しては僕はいささか不満が大きく、知力、腕力ともにまだまだ足りないと学生諸君に申し上げたい。自分の卒計と比べても、こちらが負けた感じがしないのである。
 そのあと全員でワインパーティー、非常勤の先生方との懇談会と続いて、長い一日が終わりました。

 

2001-2-12(Mon) 伝染病棟の消滅

 八幡浜の知人から「模型見てきたよ、すごく細かく作ったねえ」という電話。僕は子供の頃、八幡浜にも近い別の町に居たのですが、そこで遊んでもらっていた近所のお姉さんである。今は八幡浜市民病院の看護婦さん。この建物も松村正恒の設計だ。
  彼女の口から、「伝染病棟は壊されたよ」との話を聞いた。ショックである。松村氏の設計した、これぞ木造モダニズムという美しい建物だった。写真は撮ってあるが、なんとも残念。バイパスの橋脚になるからいずれ、とは聞いていたのですが…。うーん。

 

2001-2-11(Sun) 入試

 環境デザイン学科の一般入試A日程。大学の1〜2月はこういう仕事が多くて(気)疲れがひどいです。

 

2001-2-10(Sat) 上西さん来訪、模型到着

 建築家の上西明さんがわが家に遊びにきた。槇事務所出身の若手建築家。「渦森台ハウス」をゆっくり見てもらいました。学生時代から変わらぬ穏やかな人柄で、夕方まであれやこれや楽しく話し込んだ。彼の事務所のH.Pはここです。
  「日土小学校」の模型、無事到着との連絡。同時に、「八幡濱新聞」という地元紙の1面を飾った紹介記事のファックスもいただいた。多くの方の目に触れることを祈っている。
 ところでこの 「八幡濱新聞」、とても面白い新聞で、八幡浜市だけの日刊紙なのだが、地元の話題をなんせ細かく拾い、生徒会長決定のお知らせまで載っていたことがあるらしい。昨年7月 八幡浜で開かれた松村さんのシンポジウムや、ドコモモ20選に選ばれたことなども実に大きく扱ってくれた。で、ちょっとしたいい話も生まれまして、その顛末は『室内』1999年10月号に「学級新聞みたいな新聞」というエッセイにしてあります。興味ある方は見て下さい。

 

2001-2-9(Fri) 「日土小学校」の模型、出発

 「日土小学校」の模型が、夕刻、愛媛県八幡浜市に向かって出発した。先日も書いたが、地元・日土地区で2月11日(日)に開催される「日土ふるさと祭り」で展示されるためである。日土地区公民館がたいへん熱心な努力をされ、なんとか実現する運びになった。この公民館の方々は、昨年のちょうど今頃、鎌倉の神奈川県立近代美術館で開かれた「文化遺産としてのモダニズム建築展 DOCOMOMO20選」展にこの模型が展示されたときから関心をもたれ、展覧会を取材され、公民館報でも大きく紹介していただいた。
  その後やりとりするなかで、いつか「里帰り」が実現するといいですねと話していたのであった。
 公民館側で窓口をされた菊池彰さんがちょうど昨日大阪に来る用事があり、今日の積み込みに立ち会っていただいた。僕よりは数歳若い好青年。日土小学校の卒業生である。院生の協力を得て急遽つくった説明パネル5枚と松村さん関連の書物とともに、神戸を発ったのである。 うーん、ほんとに嬉しい。

 YMKMさんと設計してきた住宅が、今日やっと工事契約にまでたどりついた。さあいよいよ現場だ。

 

2001-2-8(Thu) 

 卒業制作の提出日。締め切りから逆算してスケジュールを組めない人が どうしてこんなに多いのだろう。不思議で仕方がない。これからゆっくり見ます。

 

2001-2-7(Wed) ヒロイズムとセンチメンタリズムとノスタルジー

 卒業制作の提出がいよいよ明日に迫った。僕はこの時期の大学の雰囲気がたまらなく好きだ。スタジオ(=製図室)、ゼミ室(=各研究室に付属の学生用の部屋)、ラボ(=工作機械等が揃った工房)、CAD室(=学科のコンピューター室)などあちこちで4年生が作業をしている。下級生を使いながら、あるいは院生に助けてもらいながら、途方に暮れ、呆然とし、緊張し、しかし自分の考えたことに何とかかたちを与えようとしている。徹夜続きで、明らかに判断力が落ちている。そんな4年生の姿を見るのが、僕はたまらなく好きなのだ。ヒロイズムとセンチメンタリズムとノスタルジーに満ちた風景である。
 修論は今日が締め切り。お疲れさま。僕の研究室初の修論は、雑誌『国際建築』についての研究です。
 家族に撮っておいてもらった昨日のNHK番組「プロジェクトX」 のビデオを見た。「瀬戸大橋」をかけた技術者の物語だ。かっこいい。この番組はときどき小学3年生の息子といっしょに見て、熱い感動を共有している(笑)。ここにもヒロイズムとセンチメンタリズムとノスタルジー。

 

2001-2-6(Tue) この時期の大学は。 「日土小学校」の模型の里帰り計画

 この時期の大学は、とにかく慌ただしい。
 大学院B日程の入試(採点、面接、判定会議)、一般入試の準備、来年の入試方法の検討、卒業制作と修士論文の相談相手、学期末試験、レポート読み、採点。そんなことばかりで時間が過ぎていく。その合間に、設計の打ち合わせ等々、自分のことを詰め込んでいる。
 先週から「日土小学校」の模型の里帰り計画が急に動きだし、これも慌ただしさに輪をかけている。ちょうど1年前に完成したあの模型、その後随分働いてくれていたのだが、やっと地元へのお披露目である。2月9日の夕方、八幡浜へ専用トラックに乗って出発する。11日、地元・日土町でのお祭りから、しばらく向こうに滞在する。 現在、同時に送る展示パネルを製作中。とくに子供たちに見てほしい。そして、 どうしてあんな精巧な模型を学生と僕が夢中になってつくったのか、それが少しでも伝わればとても嬉しい。この件、また詳しく報告します。

 

2001-1-28(Sun) 雪の東京

 雪に包まれた上野へ。とけかけた雪が凍りついて、みんなそろりそろりと歩いている。時間が急にゆっくりと流れ始めたみたいだった。おまけに日曜日で、なんとも不思議な静けさである。
 東京芸大の美術館で藤木忠善氏の退官記念の「ふたつのすまい+α」展へ。僕は例の「サニーボックス」(1963)が大好きで、そんなファンにとってはとても嬉しい展覧会だった。というのも、会場には「サニーボックス」のフロアごとの簡単な原寸模型があって、実際の空間のスケールが体験できたからである。2階のテラスの広さに改めて驚いた。屋上の手摺壁の高さがとてもいい。1/100のペーパーモデルキット(500円)も売ってました。
 国立近代博物館も一周。「表慶館」での「美術館を読み解く‐表慶館と現代の美術」展は、「展示」という行為や「美術館」という容器についての問いかけである。昨夜AOKI君ともホワイトキューブの是非について話したのだが、「美術」と「美術館」とを関連づけて考えれば考えるほど「容器」の不要さが浮かび上がるというジレンマがあって、難しい問題だ。谷口吉生さんの新作「法隆寺宝物館」は相変わらず繊細なつくり。生意気を言えば、でも僕は「丸亀」が一番好きだなあ。

 

2001-1-27(Sat) 20年

 東大建築学科の僕らの学年の「20年会」が大雪の東京で開かれた。つまり学部を卒業してから20年が過ぎた、ということであるが、正直言って、信じられない。前回は「10年会」。あれから10年。これもやはり信じられない。ほんとにあっという間だ。
 
雪のため、出席予定の先生方の何人かが欠席されたのは残念だったが、卒業生の方はほとんどが勢ぞろい。友人たちの活躍を通して自分の位置も確認できる。ほんとうに貴重な機会だ。多士済々の学年で、僕はこの年の卒業生であることを誇りに思う。解散後はAOKI君と遅くまで話し込んだ。

 

2001-1-25(Thu) 学期末、学年末

  23日午後が2年生のグループ課題、今日は3年生の2週間短期設計課題のそれぞれ最終講評会。その間に、来年度の4年生のゼミ配属調整、入試関係の打ち合わせ、学内の共同研究費のヒアリング、学科会議、後期最後の授業などが詰め込まれ、その合間をぬって4年生の卒業制作の尻叩き。嗚呼、 いかにも学期末、学年末の慌ただしい毎日です。
  それにしても今日の講評会は面白かった。短期課題なので、全員の作品をパネルに掲示し、教員がこれは面白いと思うものにポストイットを事前に貼り、それらを中心に学生の前で講評した。「どうしてこれに貼るんだろう」「今からでも剥がしませんか」「そういうの苦し紛れだなあ」などとざっくばらんな言葉が飛び交うなか、それぞれの教員が各自の意見を述べあった。ああでもないこうでもないという議論の渦が心地よい速度で回転して、いやあ楽しかったなあ。

 

2001-1-20(Sat) 模型の力

 九州芸術工科大学へ。ここ数年、1年生の「デザイン基礎」という科目の最後の講評会に参加している。歴史上有名な住宅の模型を3、4人ずつのグループでつくったうえで、その空間について考えようという内容だ。縮尺は20分の1!小さなカメラを模型につっこみ、みんなでスクリーンに映しながら眺めたりもする。
  20分の1の「サヴォア邸」や「中野本町の家」、「ファンズワース邸」や「軽井沢の山荘」なんかができてくるのだ。それはそれはすごい迫力である。1年生だから模型の技術や図面の読み取りもまだまだだけど、でもかえってそれがおもしろい。大きさだけで勝負、といった感じになるからだ。お神輿みたいに、数人の学生が大きな「サヴォワ邸」をよいしょよいしょと運んでくる風景はなんともユーモラスなものである。
 今回はコルビュジエの「ショ−ダン邸」 がすごかった。頭をすっぽり入れて覗き込める。日除けのルーバーも細かく作ってあって、それが生み出す影が美しい。世界中で、こんな大きなショ−ダン邸の模型を見たひとはそうそういないだろうねという話をした。

 芸工大で昨年つくった「日土小学校」の模型も20分の1。模型の力はやはりすごい。

 

2001-1-19(Fri) お見合い

 今週は、来年度の卒業研究のゼミ選びのための面談週間である。各教員が指定した時間に、3年の学生諸君が自分の関心のある研究室を訪れるのである。僕は16、18、19日の午後を指定してあって、今日が最終日。卒業研究では何をやりたいのか?将来の希望は?なんて質問をこちらからして、学生諸君はゼミではどんなことやるんですかなどと聞いてくる。
  毎年のことだが、これが結構どきどきする、というか妙に照れくさい。一種のお見合い、ですからね。結果がでるのは来週なかば。

 

2001-1-17(Wed) 6年が過ぎた

 阪神大震災から6年が過ぎた。ほんとにあっという間だ。当時はここから少し下にある古いマンションに住んでいた。前日は休みで、近所に住む友人夫婦が子供といっしょにやって来た。わが家もまだ長男しかいなかった。子供どうしも大の仲良しで、夕方までみんなで楽しく遊んだのだ。やがて彼らも帰り、夕食を食べ、お風呂にはいり、テレビを少し見たのかなあ、妻と子供は先に寝て、多分僕は自分の部屋で何か仕事を遅くまでやった。そして僕も布団にはいり、眠りについた。まん中に3才の子供。川の字。誰もがそんなふうに、いつもと同じことを淡々と繰り返しただけなのだ。本当にそれだけのことなのだ。
 気がつくと布団の上に四つん這いになっていた。猛烈な勢いで前後に揺さぶられた。何が起こったのか全く分からないまま、もうだめかなと感じたことを覚えている。恐かった。
 そのあと、いろんなことがあったなあ。思い出すとしゅんとしてくることばかりだ。
  後日、地震の前日に友人たちが遊びに来たときの写真ができ、そこに写っているみんなの笑顔を見ていたら、この日が、まさにこの写真に写っているこの日が、人生の最後の日になった人たちがいっぱいいるんだという当たり前のことで頭の中がいっぱいになった。無念なことだろうと思った。この写真を見ることができている今と、見ることができなかった可能性とが頭の中で交錯した。
 1年目の16日の深夜、ひとりで起きていたらなぜか近所でカラスが騒ぎ、崖から突き落とされるような恐怖感に包まれた
。昨夜はさすがにもうそんな気持ちにはならなかったが、しかし当時の映像をたまにテレビで見たりすると、一瞬にしてあの頃の妙にしーんとした空気を思い出す。そして、身体が冷たくなるような感じがする。

 

2001-1-14(Sun) 寝込んで

 9日・設計の打ち合わせ、10日・学科会議、11日・授業/次年度ゼミ生配属説明会/3年生への設計課題説明/ゼミ生の卒計の相談相手、とばたばたしていたら、11日の夜から急に熱が出て、12日、13日と寝込んでしまい、今日の夜、やっと立ち直りました。頭はわりとはっきりしてるのに、熱があって身体がまったくいうことをきかないという変な風邪(たぶん)でした。

 そんな状態で読んだ本。A:『住宅論‐12のダイアローグ』(青木淳、INAX出版)、B:『住宅という場所で』(植田実他監修、TOTO出版)、C:『モダニズム建築の奇跡』(内井昭蔵監修、INAX出版) のインタビューの部分だけ、D:『アマゾン・ドット・コム』 (ロバート・スペクター、日経BP社)の途中まで。どれもとにかくほとんど会話なんだから(Dは違うけど)、なんとか読めるのではと布団に持ち込んだ次第です。AとBは、同じ建築家でも別の建築家がつっこむといろいろ違う話になるもんだという比較ができたこと、AとCは、ひとりの建築家による他の建築家へのインタビューという形式は同じなのに、全く印象の違う本になっていること、がそれぞれ面白かったです。Aについては、あれだけ細かいつっこみをほかのひとに入れたんだから、青木君の自分の番があんなアイドルみたいなインタビューでは拍子抜け。Dは、でもどうやって我が家にアマゾン・ドット・コムから本が届いているのだろう、その肝心のところがまだよくわからない。読み終わったらわかるのかなあ。きっと熱のせいだ。

 

2001-1-7(Sun) 中村さん

 午前中は、住宅建築編集部の中村さんがやってきた。「渦森台ハウス」を去年の8月号で紹介してくれたのが彼。BBSでもおなじみですね。昨日から関西入りしていろんな人に会っている様子。我が家もその後どんなふうに暮らしているかの確認、だったのかな。21世紀最初の世間話。他誌のこと、BBSのこと、住建のこと、今やっている住宅のこと、その他いろいろ。ニ−チェアからはみ出る巨体が頼もしい。足でかせぐこういう姿勢が「住宅建築」の発掘力の源なんだろうな。

 午後は雪。積もるというほどではないが、雪。車で出かけて戻るときに、我が家のある渦森台より低い位置にある住吉台には随分積もっていることに驚いた。そのエリアは谷筋になっているので何か違うんだろうか。微気候ってやつか。

 皆さん御存知かもしれないけど、Googleという検索エンジン、とてもいいですね。

 

2001-1-6(Sat) 一気に

 雨戸をあけたら雪。うっすらとだけど庭にも屋根にも積もっていた。

 終日、家で宿題。プログラムという言葉を軸に、少しは設計の役に立つイメージを言葉で描くという無理難題。事例も入れる必要があって悩ましい。BBSにも書いたけど、〈一気に〉出現する建築のイメージだ。

 

2001-1-5(Fri) こわい先生 まだ懐古調

 大学院は駒場で過ごした。当時の東大の建築は、大学院は本郷と六本木の生産技術研究所と駒場の教養部の図学教室とが受け皿だった。駒場の図学教室というのは、つまりかつて生田勉がいたところである。
 ちなみに、生田勉さんは僕が院生のときに亡くなり、御葬式の手伝いにいった。樋口清先生もすでに退官されていた。あるとき研究室に顔を出された折り、ちょうど野球をしに出かけようとしていた院生に「そんな暇があったら昔はイタリア語でもやったもんですがねえ」と、例の飄々とした感じでおっしゃったことを覚えている。

 僕はそこの広部達也先生の研究室に所属した。最初に数学を学び、そのあと建築をやった先生だ。僕の思考は完全に彼の空間論の影響下にある。ゼミで数理論理学の本を読んだりした。
 この先生が僕はこわかった。僕の学部の卒計は、卒論で分析したコルビュジエのサヴォワ邸の構造を彼の設計したチャンディガールという都市に逆投射してそこを改造するという青臭い代物だったが、一応卒計賞をとったりして結構舞い上がっていたに違いない。それを最初にゼミで紹介したとき、彼からきわめて論理的に矛盾をつかれた。ふたつの異なるカテゴリー間での変換作業における誤謬についての指摘だった。正確に覚えてないのが自分でも情けないが、リアリティの有無とかそんなことでは全くなくて、閉じたゲームの綻びについて。こたえましたねえ。
  この正月、やっとのことで我が家の載った雑誌を彼に送り、今日返事の葉書が来た。屋根の架構の分かりにくい部分の指摘と、玄関の位置についての「チョット私などにはよくわからない」という批判、まったくその通りです。悩んだ部分です。嬉しかったのは、壁に配線スペースがないから配管やスイッチボックスをすべて露出にしたところについて「コンジットチューブが壁に出ているところなんぞ仲々の根生です」という表現。「仲々の根生」、うれしいです。それから、庭が「ずい分淋しいなと思っていたら」「巻末の花田さんの話で修造を気取っているのがわかり笑いました」というところ。何日か前にも書いたオリーブのことです。
  まったくもって通知表をそおーっと開く小学生の気分でした。いきなり読むのが恐ろしくて、ささっと目を走らせたら「明快」という文字が目に入り、やっと読み始める勇気がわきました。

 大学の意味って、友だちづくりと「こわい」と思える先生との出会いにあるような気がします。

 

2001-1-4(Thu) 都会と田舎 センチメンタルジャーニー 懐古調

 東京に転校した子供の友だちが泊まりに来たり、その子に会いに神戸の友だちたちが来たり、そしてさらにそれぞれのお母さんたちもやって来たりで、この3日間、実に賑やかな渦森台ハウスでした。いろんなところに子供がころがっていました。みんな元気でよろしい。でも廊下はもっと静かに歩きましょう!

  転校した友だちとどうしてこんなにいつまでも仲がいいのだろうと、僕にはちょっと不思議です。僕もちょうど彼らと同じ頃、つまり小学3年生の秋に愛媛県の山奥から高知市に転校した。しばらくは手紙や年賀状を書いたりしたけど、意外に早くそれも途絶えたように記憶している。少なくとも、うちの子供みたいに長期の休みごとに会うなんてことはできなかったし、考えもしなかった。
 神戸と東京だからじゃないかな、と思う。都会と都会。同じなのだ。高知市はまがりなりにも県庁所在地。田舎と都会の差に、小学生の僕は酔っていたんじゃないだろうか。
 どのくらい田舎の子だったかというと、新しい小学校のことを何にも聞いてないうちから、ノートに「高知小学校3年はなだよしあき」と書いて喜んでいた。高知の小学校へ行くんだから高知小学校にきまってる。ひとつの町に小学校がいくつもあるなんて思いもしなかったんですよ!

 大学生になってから初めて自分のいた町へひとり旅をした。懐かしかったのは間違いない。だけど、それほど印象的な旅としては記憶していない。
 ところが数年前に四国の公共建築を見る旅をしたとき、車が愛媛県に入った頃から次第に何かが僕の中で目覚めて来た。風景がどこもかしこも懐かしい。僕のいた町の近くの内子から八幡浜に抜け、松村正恒氏の設計した小学校を目にしたとき、なんだかそれが最高潮に達し、建築の素晴らしさと昭和30年代の自分の記憶とがごちゃまぜになった不思議な感覚に包まれていた。
 松村さんのことを調べていくと、さらにいろいろつながってくる。彼が設計した狩江小学校のある明浜町は僕の父親の故郷だった。八幡浜の松村さん設計の市民病院には僕が小さい頃遊んでもらった近所のお姉さんたちが看護婦さんとして働いていて、昨年の夏は約30年ぶりの御対面…。その他にもいろいろあって、松村研究そしてモダニズム研究は、僕にとってセンチメンタルジャーニー以外の何物でもない。

 

2001-1-1(Mon) 21世紀のスタート

 21世紀のスタートである。といっても朝起きたらロボットが朝食を運んできた、なんてことは起こらない。いつもの朝だ。初日の出を見ようと子供と早起きをしたが(といっても7時だ)、残念ながら曇り空。こういうときこそ大阪湾まで見える我が家の威力をと思ったが残念であった。で、さらに一眠りして8時過ぎに雨戸を開けると、雪が舞っていた。これも標高300mの場所にある我が家の別の威力である。粉雪。10時頃にはやんでしまった。
 雑煮→分厚い朝刊→年賀状→初詣。静かな渦森台。高齢化した住宅地だが、日頃目にしない車があちこちにとまっている。里帰りだ。たぶん僕くらいの世代の家族だ。かくいう私は今年は神戸にいる。田舎の実家には両親が二人だけ。へんな気分。

 年末年始と20世紀を振り返る話題がいろんなメディアを賑わしていた。今日も夜、NHKテレビで広島の原爆の悲惨さを伝える語りを3人の女優さんがやっていた。昨年の11月、芸工大の共同研究の一環で僕も広島を訪れた。僕としてはたしか4度目の広島行きだったが、それまでとは自分のなかに湧く感情が違っていた。戦後復興期を軸にした調査ということが大きな要因ではあったと思う。原爆と何らかの関係をもつ建物ばかりを見たからだ。
しかしもっと単純な理由、つまり初めて広島市に泊まったということが実は一番こたえたのだ。
 昼間は車で走り回っていたからあまり感じなかったが、夜、みんなとの食事を終えてひとり平和公園のあたりをもう一度歩いてみた。そうすると、今歩いているこの舗装された地面の下にかつてあの地獄があったのだという思いが一気にこみ上げてきた。死体の上を歩いているという感覚である。恐いという感じじゃない。あえていえば申し訳ないというような気持ち、だろうか。この靴の下にも、あのビルの下にも、泊まっているホテルの下にも、と想像が広がる。それから、犠牲になった人々はあの有名なキノコ雲を上空から見たのではなく、今僕が見ているこの目線の高さで地獄と化した風景を見たのだという一種の追体験。いくらでも泣けそうな気分だった。たった2晩とはいえ、広島の昼と夜をゆっくり体験することで、
この都市のもつたいへんな記憶を、本当に遅ればせながら僕は感じとることができたのである。
 
21世紀はやはりこのあたりを原点にしてスタートすべきだ。

 

2000-12-31(Sun) 大掃除で20世紀が終わる

 20世紀最後の日は大掃除。5月に引っ越してから8カ月が過ぎた。床面積は以前のマンションの倍ほどあるので、ものが散乱している感じはしない。ただ、以前のゴミをそのまま移動しただけというものもあって、そのあたりは再整理した。今日の僕の最大の功績はサッシュの掃除とガラス拭き。掃除は嫌いな方ではない。というか、たまに始めるとのめり込む。歯ブラシや爪楊枝で流しや風呂の排水口を擦り始めると止まらない。妻への当てつけ、では決してない。モノの凹凸を確認しつつ、可能な限り奥へ奥へと歯ブラシや爪楊枝の先を滑り込ませ、汚れをそぎ落としていくのが快感なのだ。限界への挑戦。修行僧の気分である。
 まずはアルミ製雨戸8枚をすべて拭く。ルーバー状になった表面の溝すべてにタオルを走らせた。単純作業の快感である。指が溝の深さを覚えていく。同じ雨戸でも、位置によって多少埃のつき具合に違いがある。不思議である。で、いよいよアルミサッシュのレール掃除。濡れタオルと爪楊枝、そして20 cmほどの小さな箒が当方の武器。まずは箒で埃を飛ばし、指先にタオルを当てて溝を一本一本擦っていく。汚れが粉末のようになったところに再度、箒。レールの立ち上がりの根元の入隅等の汚れは爪楊枝で欠き落とす。出隅、入隅を徹底的に確認する。そのくり返し。居間、1・2階の和室、2階書斎・多目的スペース、ロフト等の主なサッシュのレールを磨き上げた。 ガラス拭きも主に上記の場所である。2階書斎・多目的スペースは墜落しないように慎重に。ロフト妻側のフィックスの三角窓も屋根の上に出て拭くことができた。
  面白かったなあ。ディテールを身体で確認する快感、あるいは原寸図を書いているような感動、ですね。詳細図を書く時にはこういう想像力が必要なんだな。
 
  20世紀が終わる、というのは結構奇妙な気分である。そんなときが来るなんて小さいころ思いもしなかった、というもののなかでも一番思いもしなかったことのような気がする。愛媛県の田舎の小学生だった頃、その町の山にロープーウェ−を作るぞという未来の絵を書いたことを思い出す。あーあ、ついこないだのことなんだけどなあ。

 

2000-12-29(Fri) 年の瀬のお客さん

 今日は我が家にお客さんがいっぱい。ノルウェーから芸工大に短期留学で来ている二人の学生さんとその友人で東大の建築学科に同じく短期留学中の女性、それから京都工芸繊維大の松隈洋さん御夫妻と新建築編集部の橋本純さんである。芸工大に留学中のお二人とは設計課題を僕が担当したのですっかり仲良しになりました。3人の学生さんはノルウェーのある大学の同級生。海外でのこういう勉強も単位となるシステムだそうで、芸工大組の2人は1月中旬に一旦帰国したあと、春からはドイツの学校へ。東大の彼女は8月まで東大にいるとのこと。 海外での費用は国からの奨学金とローンでまかなえるそうで、聞けば聞くほど羨ましい話がとびだしてくる。どうしてそんなにノルウェーは豊かなのかと質問すると、「油が出るからだ」と笑いながら答えてくれた。でも同じお金でも使い道は色々あるわけだから、政府の思想がまったく違うんだろうな、日本とは。
 松隈、橋本御両人は以前からの仕事仲間。我が家を初めて見てもらいました。結構気に入ってくれたのではと想像しましたが、どうだったでしょ。
  昼過ぎから夜までみんなでゆったり過ごしました。12月9日のコンパ以来、居間のテーブルの足を低くして(長いのと短いのを取り替えられるようにしてあります)「座」の暮らしを楽しんでいますが、それも一役買ってるのではと想像します。床暖房のお陰もあるでしょう。
  留学生フランシス君は実に上手に子供たちと遊んでくれて、とくに下の3歳の子供は大興奮。最後彼らが帰ると知って、大泣きになってしまいました。
 留学生3人組は我が家の木の空間を気に入ってくれて、ノルウェーの自分の家にいるようだと表現してくれました。なんだかとても嬉しかったなあ。

 

2000-12-27(Wed) 絶賛『日本風景論』、宣伝『cofort』

 東京へ日帰り出張。夏休みから引きずっている宿題の打ち合わせ。建築家0さんと東工大院生のMさんの3人であれこれと議論。なんとか20世紀中にイメージがかたまった。

 往復の新幹線の中で『日本風景論』(切通理作・丸田祥三、春秋社) 読了。1964年生まれの評論家と写真家による対話である。僕は1956年生まれだが、僕より後に生まれた二人の語る少し前の時代の風景、しかも戦争や貧しさの匂いが残った風景と、それに注がれる彼らの眼差しとにいたく共感した。今世紀後半に日本が犯した原風景の破壊という壮大な過ちに対する、若い世代からの優れた批評。 僕が大学に入り東京で暮らし始めたのが1980年。右も左も分からなかった。まして東京の下町や郊外のことなんか。で、そのころ中学生の丸田祥三氏は、本書におさめられたような戦後の匂いのする、しかも失われつつある風景を撮りためていた。なんという早熟。四国の田舎にいた頃のことから上京後の一人暮らしまで、自分の見た風景が重なった。あーあ、ついこないだのことなんだけどなあ。

 家に帰ると『confort』(N0.46)が届いていた。我が家「渦森台ハウス」が掲載されています。よかったら見て下さい。「和の機能」という大きな特集の中の「日本の住まい・新スタンダード」というコーナーです。「和」という言葉は苦手だけど、「新スタンダード」は僕の思いと重なります。これで『jt』7月号と『住宅建築』8月号と合わせて3誌に紹介してもらったのですが、写真が三者三様で面白かった。 今回の『cofort』の写真が住んでいる実感には一番近いように感じます。とくに、最初の見開きの写真が好きです。吹き抜けを中心にした我が家の空間の関係がよくわかる。外との関係もいいです。2階の多目的スペース(P.28)の写真も好き。「そうそうこんな感じ」、です。外観は『住宅建築』の岩為さんの写真がベスト。『jt』では階段を越えて和室から居間を見た写真(P.64)がいい。

 

2000-12-24(Sun) 「ヒ」とクリスマスツリー

 宮本佳明さん設計の「ヒ」という名前の住宅を見てきた。須磨区の山陽電鉄月見山駅から南へ5分。阪神大震災の被害も大きかったエリアだろう。まわりには小さなメーカー住宅が密集して建っている。「ヒ」というのは断面のコンクリートの形を表わしている。といってもなかなか理解してもらえないだろうが、「ヒ」という字の上の横棒が2階スラブ、下が1階のスラブである。そしてそれらをつなぐ縦の壁は、まさに「ヒ」の形通り片側にしかない。つまり2階スラブ全体が跳ね出しているのだ。その大きさは、およそ9m×10m。垂れ下がり防止であろうか、鉄の柱が6ケ所先端を支えてはいるが、かなり思いきった構造だろう。2階は一方の壁以外は木造で、それがスラブの中央に乗っている。この木造の箱は平面的に振られていて、しかも周囲に残る三角形のルーフデッキに土が乗せてあるのは、2階スラブを大地とみなしたというような象徴か。いずれ掲載する建築雑誌もあるだろうから、詳しくはそちらを見て下さい。
 僕の印象はというと、「愛田荘」等のこれまで彼が設計した建物とほぼ同じ。まずは機能上の心配。そして予想される脆弱さと構造に込められた強い思いとのアンバランス。一種の「痛ましさ」、である。勝手にこんなこと書いていると宮本さんには怒られるかもしれないが、こういう思いをどのような言葉で伝えるべきか、いずれきちんと考えたい。

 この見学会で花田研の最初の年の卒業生・片山由紀さんに会った。工務店の設計部で働いている。元気そうでなにより。みんなにH.Pのこと知らせてくださいね。

 クリスマスイブ。「渦森台ハウス」のオリーブに電球を少し巻きつけてみた。子供たちへのサービスだったがやってみると結構きれいで、空からなにかが舞い降りてきそうな気分になった。

 

2000-12-23(Sat) 議論や思考を誘発する場の形式

 20日 いろいろな会議、昼から晩まで
 21日 3年生の課題の最終講評会、朝から晩まで
 22日 4年生の卒計の中間講評会、昼から晩まで
と続いて、慌ただしい1週間でした。これに夏休みからの宿題、住宅の見積もりの調整等が加わって、やはり年末は気ぜわしいです。年賀状の準備等、まだぜんぜん。
 今週のもうひとつの話題は、当研究室の掲示板の形式をいろいろといじったこと。ドタバタ劇の痕跡はまさに掲示板に残ってます。興味のある方はそちらを(特に過去ログ)見てください。ツリー表示のある形式から元のようなシンプルなかたちへと、2転3転いたしました
。それにつきあわされた院生の梶川君こそいい迷惑でしたが、僕としてはとても貴重な体験になった次第。書く気になるかどうか、参加する気になるかどうかという気持ちが、掲示板の形式に大きく左右されるということを実感できたからです。それはもう不思議なくらい。もうちょっといじってみたいと思っています。梶川君、もうしばらくおつきあい下さい。議論や思考を誘発する場の形式ってどうあればよいか。建物の設計してるときの感じに近い体験です。

 

2000-12-18(Man) 問題を考えよ!

 「BBS」とこの「Logbook」をどう使い分けたらよいのか悩みます。今日の重要な出来事は「BBS」に書いたのでそのままこっちに貼りつけてお茶を濁します。ずるい!
                   ■

  ゼミで卒計の経過を聞きましたが、具体化できているひとがまだまだ少ない。そのなかではO君の話が僕には一番「通じ」ました。

(1)対象地域:自分が行政の町づくりイベント等で関わった神戸にある港に近い下町。土地カンあり。
(2)敷地状況:すぐ前に巨大な工場建築群。背後に長屋、雑居ビル、路地、いろんな人々。
(3)特殊な条件:近くの商業地区(ハーバーランド)から幹線道路が延びる予定。それがちょうど工場群と住居地区との境界を貫通する。
(4)選んだ敷地:この予定幹線道路沿いで住居地区側に属し、しかも商業地区との接点になる細長い三角形の土地。長辺が200mくらいかな。
(5)で、その場所になんらかの公共的な施設をつくる。

 とまあこう書いてもどうってことないと感じられると思いますが、とりあえず僕は敷地選びとしてうまくいってると感じました。なぜかと言うと、その土地とさまざまな「世界」とのあいだにいろいろな種類の「関係」が見出せて、そこからさまざまなアイディア、つまりものごとを決めていく「手がかり」や「根拠」が見つかると確信できたからです。そこには「解くに値する問題がある」、要は「これならいける」という感じです。
  「世界」というのはたとえば、行政、自分自身、下町という過去、新しい道路という未来、工場地帯等々です。「関係」とか「手がかり」というのはたとえば、参加、境界、工場地区と住宅地区との調停、海との関係、工場地区の形態的イメージ、ハーバーランドとの関係、いずれ開発される住居地区のイメージとの関係、等々です。
 
で、このくらいの材料があると僕もいろいろ楽しめる。すっかり自分で設計してる気分になれました。アドバイスした点は以下の通り。

(1)その細長い三角の敷地の頂点に「旗」のようにくっついている長屋地区を加えてはどうか。それによって、この「境界線上の調停施設」が「住居地区」とのあいだでどういう「調停」の可能性をもつかを部分的に示すことができる。敷地の形も「未完」「途上」というイメージをもってくる。
(2)形態的なボキャブラリーも二つの地区を「調停」するように考える。道路沿いの「マスク=仮面」とその奥に潜むがちゃがちゃした構成(工場からの連想)。等々
(3)卒論はロシアアバンギャルドだったじゃないか!その感じでガーンといけ!

 つまり、よりいっそう「効果的な」「関係」を増やす手だてを探っているわけです。何にとって「効果的な」かというと、全体のストーリーを明確に浮かび上がらせることにとって、です。言い換えれば、この場所がもっている「問題」とそれへの「解答」をよりいっそうクリアに示すため、ということ。その「ストーリー」づくりのために、あらゆる兵隊を動員しようと考えている。他に使える兵隊はいないかと必死で探している。
 なお当然のことですが、O君にはこのアドバイスに従うことではなく、それを乗り越えることが期待されます。

 …たとえばこんな思考のプロセスがあると思います。もちろんほんの一例。「問題」によって全然別の道筋が辿られるべきでしょう。
 多くのひとはまだ「考える」ことに慣れてないという印象です。何を考えるのか。もちろん「問題」を、です。しかも「解くに値する問題」を。それがなければ「解く」必要ないもんね。
 穐山さんの言うように卒計のテーマは時代とともに変わっているのは当然だけど、僕はとにかく若い世代が年寄りに向かって「問題」の所在を示すことに卒計の意味があると思っています。

 

2000-12-17(Sun) 静かに降る雨のような執念と、子供のような情熱を!

 先週に続いてまたも雨の日曜日。静かな穏やかな雨の一日。「渦森台ハウス」の殺風景な庭にあるオリーブの葉もしっとりと濡れて、なんて哲学的かつ文学的な風景だ(笑)。オリーブの実は1個だけつきました。瀧口修造が友人たちに贈ったような瓶詰めがつくれるのはいつの日か。
 
居間の前の土の部分には3日前から大きな深い穴があいている。小学3年生の子供が友だちと二人で掘ったものだ。弟用の落とし穴なんだそうですが、それよりとにかく穴を掘る作業が面白い様子。それはもう夢中で掘っていた。そういえばやったなあ、こういうこと。

 BBSにやっと書き込み。少し水をさす意見と受け取られるかもしれないが、僕はとにかく「つくる」ための議論をしたい。とくに4年生の諸君には、卒計は初めての「つくる」機会なんだという認識がほしい。その思考過程を書き込んでみてはどうだろうか。アナクロと笑われるかもしれないが、卒計は命がけでやるべきだと僕は思う。静かに降る雨のような執念と、子供のような情熱を!

 

2000-12-16(Sat) 古巣

 さっそく3日間も空白ができてしまった。まあ仕方ないか。こういう日記風の記述にどんな意味があるのかよくわからないまま始めているが、日記というよりアイディアノートになればと思っている。

 今日は我が家に僕が以前勤めていた日建設計の仲間たちが集まった。東京へ転勤するひとの送別会を兼ねた忘年会。みんな家族もちになっていて、我が家も合わせて大人と子供総勢18人の大パーティー。一番大きな子供が小学校4年生で、一番下がまだ2才。みんな思いきり家の中を走り回ってくれました。 「渦森台ハウス」はこういうとき本領を発揮します。部屋らしい部屋がなくて、全体が立体的な広い廊下みたいになっているので、めっぽう面白いみたいです。子供たちがだんごになって駆け抜けてました。大人の行動も面白くて、2階の吹き抜けまわりでは、子供コーナーの低いパネルの周囲で女性陣が「立ち話」をしてました。まるで道路のような風景でした。
 
設計業界もこの経済状況ではいろいろたいへんで、日建も僕がいた頃からすればずいぶんと変革をおこなっている。今や僕の世代前後が設計室長になり、いわば自分の事務所を日建のなかで動かしている。ずっと勤めていたら僕は何をしてたのだろう。不思議な思いにとらわれる。20台後半から30台前半を過ごした古巣です。 ほとんどのことが初めてで数々の失敗をくり返し、生活面では東京の友人とのあいだの手紙を思考の場とし、建築ジャーナリズムの動きに焦っていた、そんな頃。
  大きな設計組織とそこで働く設計者は、今後どんな可能性をもち得るだろうか。彼らの熱意を支えるために組織自体をどうデザインするか、それがなにより課題だと思う。

 研究室のBBSにずいぶんたくさんの書き込みがあって喜んでいます。吹け!研ぎすまされた言葉の嵐よ(笑)。

 

2000-12-13(Wed) 元気がでる

 ホームページ、無事復旧できました。

 以前書いた夏休みからの宿題について、Oさんと電話で打ち合わせ。建築のプログラムとビルディングタイプの関係について、わかりやすい概論をまとめようとしています。BBSの方の話題とも重なってきますが、まさに「つくるための言葉」探しをしています。たとえ言葉によってであれ、「つくる」話を優秀な若い建築家とやっていると、つまり「設計」していると、僕はとても元気がでます。急げ。

 

2000-12-12(Tue) 青木君から書き込み 

 朝早くBBSに青木君から書き込みがあって、返事を送ったと思ったらしばらくして芸工大につながらなくなった。大学に行ってみると、サーバーがダウンしたとのこと。プロキシをはずせば大学の外にはつながるのだが、芸工大や自分の研究室のホームページが機能しない。なんだか世間から切り離されたような感覚。

 青木君とのやりとりは、この春以来気になっている内容です。僕が手こずってるのは、建築と言葉の関係についての一般論というよりは、以前書いた「青木淳論序説」以降の青木淳論をどう組み立て得るかということかもしれません。変な袋小路にはいらないようにと思いつつ、決定打をだせないでいる。

 

2000-12-11(Mon) 嬉しかった

 今日買った本。『住宅という場所で』(植田実ほか監修、TOTO出版)、『日本風景論』(切通理作・丸田祥三、春秋社)、『弱くある自由へ』(立石真也、青土社)、『そうだったのか!現代史』(池上彰、集英社)。
  『住宅という場所で』の青木淳君のセクションで、植田実さんが僕の書いた「青木淳論序説」を
とりあげてくれていました。嬉しかったです。

 

2000-12-10(Sun) 美味しかった

 雨の日曜日です。昨日の鍋の残りでうどんをつくったらとても美味しかったです(笑)。

 

2000-12-9(Sat) 楽しかった

 今日は、我が家「渦森台ハウス」でゼミのパーティー。大学院生+4年生+ノルウェーからの短期留学生あわせて9名。それに僕と僕の家族3名である。12時に買い出し班4人とJR住吉駅で待ち合わせをし、シーア(生協の大きなショッピングセンター)でたっぷりのお買い物。鍋料理である。合い鴨、ほたて等々を煮込み、じつにコクのあるだしが出た。美味しかったなあ。学生諸君の料理のうまさと手際のよさに舌を巻いた。2時過ぎから食べ始め、飲み始め、屋上から神戸の海を眺めたり家の中を見てもらったりの休憩がはいり、デザートにアンリの「のの字ケーキ」、なぜか「トムとジェリー」を見ながら、からすみとワイン。留学生フランシス君からはノルウェーという国のいろんな意味での豊かさを聞かされ、一同嫉妬。子供たちもたっぷり遊んでもらいました。みんなたくさん食べたねえ。「渦森台ハウス」の空間と神戸の夜景もよかったでしょ?僕はとっても楽しかったです。

 

2000-12-8(Fri) 『神戸から長野へ』

 浅田彰と田中康夫の「憂国呆談」第2弾・『神戸から長野へ』(小学館)がでていた。例によってバサバサと世の中を批評していくパワーが心地よい。田中康夫の「東京ペログリ日記」(『噂の真相』)も再開されましたね。長野県がどう変わっていくか、期待と興味でいっぱいです。それにしてもいつも思うのは、世の中に対するこういうスタンスの浅田彰が、建築に関わった途端に「Any…」にいってしまうのはどうしてなんだ。不思議です。

 

2000-12-7(Thu) 決定根拠?

 建築の決定根拠を説明することは難しい。とくにその美学的な側面について。いくら構造システムや計画的配慮や歴史的位置づけについて語ろうとも、ひとつの建築を実現しようと思ったら、さいごには素材やプロポーションや形態をひとつだけ決定しないといけないからだ。たとえそれらに交換可能性があるとしても、である。 その部分の説明はどこまで可能なのか、あるいは説明する必要があるのかないのか。

  彼の設計する建築の主要な印象を決定づけている要因が美学的側面であるとしか僕には思えていなかったある建築家のレクチャーで、意外にも構造システムや計画的配慮からの説明ばかりがなされるのを聞き、改めてそのことを考えた。これからの建築家の仕事はこれまでの建築家のように10のうちの10を決めるのではなく、10のうちの1だけを決めてあとは住み手に任すようになるし、僕はそれを実践しているというような説明もあったが、そういう説明が本当に彼の建築を決定づけているのだろうか。質問しようと思ったが、うまく考えがまとまらなかった。

 自分のことでいうと、「渦森台ハウス」でおこなった杉板パネルの徹底利用による仕上げ工事排除の試みの背後にもこういった決定根拠への思いがあったわけだが、結局は大同小異なのかどうか。そもそも美学的側面という言い方がまずい。そういう区別をせずに建築が総体として決定されること。それがぼくにとっての理想的状態である。そのときには構造システムや計画的配慮等とは別の言葉が必要なんだ、きっと。いや、そこには言葉なんてないはずだ、とAOKI君なら言うだろうか。そのずれが3日前に書いた「ぶ厚い手袋」と「素手」の違い、なのかなあ。

 

2000-12-6(Wed) 希望はある

 昨日書いた遅れている原稿について、共同執筆者である建築家のOさんとやりとり。企画全体の進捗状況からするとまだなんとかなると勝手に確認し合い、希望はある、いいものにしようと励ましあう。編集の方には聞かせられません。横浜ターミナルコンペのクールハース案の例の時間割のような表の話になり、「もうあれは歴史的事実ですよね」というOさんの言葉が印象的だった。彼は1968年生まれです。

 

2000-12-5(Tue) 日常

 対談原稿校正終了。メールで送信。クリスマスの頃に出る『confort』が「渦森台ハウス」を紹介してくれる予定で、その記事の校正、ファックス、電話連絡。大学へ。院生と研究室のホームページの打ち合わせ。彼はどうしてこんなにコンピューターに詳しいんだ。羨ましい。3年生の設計課題のエスキス。どうしてこんなに形を出せないんだ。設計中の住宅について相棒と電話で打ち合わせ。どうしてこんなに高い見積もりなんだ。再び3年生の設計課題のエスキス。 エスキスの「実演」で盛り上がる。 外は真っ暗。夏休みの宿題だった原稿が未完成のまま。我ながら情けない。当然の催促メールが夜中に。もう限界。17歳の高校生が新宿で爆弾事件。新聞記事にある犯行理由がおぞましい。そういえば高校の同級生にそういうマニアがひとりいたが、でも動機はもっと美しかった。

 

2000-12-4(Mon) 『新建築』12月号

 4年生と卒業製作についてのゼミ。みんなテーマが決まらない。そりゃそうだろうなと同情したり、なにやってんだとイライラしたり。あと2か月間、すべてを疑い、自分だけを信じ、孤独な迷路を走り抜けてほしい。

 本当に久しぶりに『新建築』を買った。12月号。伊東豊雄さんが審査員の住宅コンペの結果と、青木君の文章を見たかったから。コンペの方は「ファイナル・ハウス」という課題に対し、個の強化や都市への溶解といったイメージが多いような印象である。既視感。こんなこと、ずーっと伊東さん自身が言ってきたことじゃなかったの。1等案について伊東さんは、「個を包む膜が溶融して複数の個を包むに到っている」ことが彼の「東京遊牧少女の包」と違う新しさだと評価するが、なんだか無理矢理つくった理屈に聞こえる。細い路地が急に高速道路になったような感じである。それにしても、どうして「ファイナル」なんて考えないといけないんだろう。

 青木君は「リノベーション」という言葉を使いながら、自分の手法や、より一般的に「形式と自由」の問題を考えている。彼のある時点までの思考については「青木淳論序説」(『建築文化』9911)で論じた通りで、僕はそこに付け加えるべき何物もない。ただ、それ以降(つまり「B」以降)のことはどう整理すべきか、僕はまだよい言葉を見つけていない。少なくとも彼自身が書く言葉によっては十分説明できていないように感じている。「リノベーション」もそんな印象。彼の言葉と彼の建築との遊離感が僕には気になって仕方がない。噛み砕いたあの文体のことだ。同じ対象を、ぶ厚い手袋で撫でているとでも言えばよいか。素手とは違う感触だけを楽しんでいるだけといいましょうか。伊東さんの「路地→高速道路」論理に似た印象。こんな中途半端な書きとばしは失礼ですね。いずれきちんと考えるつもり。

 

2000-12-3(Sun) 休日

 ひさしぶりに何もない休日。買い物の手伝いをして、あとは仕事。遅れている対談原稿の校正です。自分がいかにいい加減に喋っているかがわかります。昨日玄関に打ったモルタルも乾いてきた。玄関を外部のピロティから20mm程かさあげしました。同面にしてたのですが、やはり雨が侵入するのと、冬の隙間風対策です。我が家・「渦森台ハウス」(←間もなくmember欄の経歴コーナーに写真を載せます)の冬を興味深く観察しています。今のところ床暖房だけでいけてます。

 

2000-12-2(Sat) 井上さん

 大阪に柳々堂という本屋さんがある。建築専門書店として100年の歴史をもち、関西の建築界と実に深い関係をもってきたお店です。場所は 西区京町堀。大阪のど真中の雑居ビルと木造住宅が混在するエリアです。初めて訪れた人は、「えっこれがあの有名な…」と絶句すること間違いなし。どこの田舎の駅前にもある木造2階建ての、ごくごくふつうの建物だから。ところが、この柳々堂が関西の建築界を語る上では忘れてはならない最重要情報拠点なんですね。詳しいことは『建築MAP 大阪/神戸』(TOTO出版)に書いた僕の文章をみていただけると幸いです。自転車による宅配を身上とし、店員さんは昼間各設計事務所や会社やらに本を届けて回るのです。本は自転車に乗ってやってくる!そのお陰で、実に豊かなネットワークが生まれている。そんな本屋さん。

 さて、長年このお店の番頭役をつとめてきた井上正信さんが、この秋急に辞めたという情報が流れ、みんな驚き、いささか慌てていたのでした。いったいどうしたんだ!? で、本日、これまでの感謝の気持ちとこれからの活動への期待を伝えるパーティーが開かれた。関西で事務所を構える若手建築家や組織事務所に勤める建築家等を中心に、数十人が入り乱れ、実に実に楽しい会となりました。柳々堂の松原社長がいつものようににこやかに微笑んでおられたことは言うまでもない。『建築文化』前編集長・富重さんからのメッセージも読み上げられた。

 井上さんは書店員としての日常の仕事はこなした上で、柳々堂100周年記念シンポジウムを開き、それを機会に『ア−キフォーラム in OSAKA』という雑誌を創刊し、のちにそれをトークセッションへと発展させるなど、柳々堂を舞台にしたさまざまな企画を実践してきた人です。阪神大震災のときには関西建築家ボランティアでも活躍しました。

 そんな井上さんと僕との関わりは、僕が日建設計に勤めていた頃からのもので、とにかく彼を通して色々な出版情報を知り、本を探してもらい、多くの本と雑誌を買いました。最大の思い出であり感謝すべきことがらは、モノを書く場を与えてもらったこと。僕が日建を辞め大学に移ってから書いたある文章が、某建築雑誌で掲載を拒否され途方に暮れていたところ、それをあっさり『ア−キフォーラム in OSAKA』創刊号に載せてくれたのです。100周年記念シンポジウムの記録が目的だった号の最後に、いささか硬質の長い論文が続くことになりました。したがって少し奇妙な体裁になったのですが、彼はそんなこと全く気にしなかった(たぶん…、ですが)。本当に僕は嬉しかった。その後しばらく、「いざとなればア−キフォーラムがあるさ」が友人との合い言葉になったものです。阪神大震災のときには、東灘区に住む僕の元にも安否を尋ねる連絡をいただき、「ヘルメットがほしい」という僕の希望に、どこで調達したのか、建築関連某社の使い込んだヘルメットが届けられた。段ボール箱には高杉晋作の言葉を記した檄文が添えられていて、僕は今でもその部分を切り取り、大切にもっています。

 ともかく今後の展開を期待しています、井上さん!

 

2000-12-1(Fri) 『SD』と『太陽』

 大学の帰りに『SD』12月号を買った。この号で36年間の歴史にピリオドが打たれ、休刊となる。感慨がないといえば嘘になる。学生の頃はよく読んでいた。バックナンバーも神田の古本屋でいっぱい集めた。設計課題のネタの宝庫でもあった。篠原一男氏の特集号や八束はじめさんらによる「現代建築の新思潮」特集号など、それこそ穴のあく程眺めたものだ。でも正直言って、ここ2、3年はとんと買わなくなっていた。今年はほかに1冊だけだ。不思議だなあ。少なくとも僕の中では何かが変わり、いつの間にか『SD』を必要としなくなっていた。ほかのみんなはどうだったんだろう。

 今年は大学の方で建築ジャーナリズム研究を進めていて、『SD』を創刊させた平良敬一さんへのインタビューもこの9月におこなったばかり。実にお話が楽しくて、数時間があっという間に過ぎていた。『SD』休刊の件も水を向けたが、あまり多くは語られなかった。平良さん以外に、宮内嘉久、田辺員人といった『国際建築』絡みの方々へのインタビューもおこなった。それぞれから貴重なお話を伺っている。いずれ報告書にまとめる予定です。

 休刊といえば、雑誌『太陽』も12月号で休刊だ。こちらも学生時代からずいぶん勉強させてもらった雑誌。うーん、いったいどうなってるんだ。