» 2010年9月

登録者限定!特別講義と中間講評会をWeb配信します!

2010年9月29日 18:48【お知らせ, 中間講評会

10月2日(土)の青木淳教授による特別講義と中間講評会を、リアルタイムでWeb配信(USTREAM配信)します!
ただし、応募登録者限定です。

われわれは、この「青木淳と建築を考える」を、コンペではなく「授業」だと位置づけています。「授業」だとすれば、「履修者」は全員そこに「出席」できなくてはいけません。
そこで今回、当日本学に来ることのできない諸君のために、インターネットを通じて参加してもらえるよう考えました。

登録者にはメールにて、USTREAMの番組URLと認証パスワードを連絡します。

多くの人の「出席」を期待しています!

中間講評会スケジュールのお知らせ

2010年9月29日 10:00【中間講評会

来る10月2日(土)の中間講評会を以下のスケジュールで行ないます。

応募登録をした人は、ぜひ参加してくださいね。

■スケジュール
13:30 開場
14:00 青木淳教授による講義
16:30 中間講評会
18:00 終了

■会場
神戸芸術工科大学 D棟:吉武記念ホール(キャンパスマップはこちら

対話編10 花→みなさん 12

2010年9月28日 11:14【青木淳×花田佳明 対話

後期が始まり、学生諸君とオープンスタジオについてゼミやスタジオで話す機会が増えました。みんなそれぞれ悩んでいます。

応募登録の状況ですが、これまで以上にいろいろな大学や専門学校等から登録があり、強者が集まっているのではと勝手に期待しています。締め切ったあと、登録校、人数等の情報はこのサイトに掲載しますね。

この企画はいわゆるコンペではなく「授業」だと考えています。
とすれば、応募登録とはいわば「履修登録」。そのあと本格的に「授業」が始まり、約1ヶ月後に作品を提出することになる。
この「授業」、しかも「通信教育」にならざるを得ないこの「授業」をどうすればよいかと考えていますが、「受講生」の皆さんも何か希望があればお知らせください。「自習」になったらつまらないですからね。
また、「授業」なら「評価」や「成績」は?とか、「不合格」出す?、「追試」やる?、成績を廊下に張り出す?といった悪い冗談も囁かれていますが、ま、それはそれ。

僕はこの「授業」を、「講義」でも「実習」でもなく「演習」と勝手に位置づけています。非常に特殊な問題を非常に特殊な方法で解く練習。その中からちらりと一般論が顔を出す。神は細部に宿ります。

「履修登録」は30日が締切です。ぜひ多くの若い知性と腕力の参加を!

対話編10 青→花(もしくは山)11

2010年9月20日 14:41【青木淳×花田佳明 対話

山田圭誠さんが、「青→花08」に対してコメント欄に、質問をしています。
素直な反応で、たぶん、似たような疑問をもつ人が多いのではないか、と思います。
そこで、今回は、この質問に答える形で書きます。

【「その男、凶暴につき」観ました。
吾妻や殺し屋はもちろん、歩道橋のシーンに出てくる小学生まで凶暴でした。
そんな人たちが普通の歩道橋を歩くからこそ異常で、映画の暴力的な空気感を作り出しています。
ですが、風景はあくまで普通の風景に見えます。映画の為にキャラクターをデザインされた吾妻が歩くからこそなんらかの感覚をもつものです。
映画のキャラクターである吾妻にとっては、歩道橋は単なる歩道橋ではないかと思います。
自分の生活がテーマで自分自身が主人公だとすると、なにかをデザインする余地はどこかにあるのでしょうか?

また、「その男」以外でズバリのシーンがある映画というとなんでしょうか?】

こう考えたらどうでしょうか?
もしあなたがこの映画をつくるとする。
あなたなら、映画のなかに、どのように吾妻を登場させるか?。
吾妻が刑事であることを観る人に伝える必要があります。でも、事件の取り締まりのシーンかなにかで登場させるのはつまらない。
刑事であることより先に、その静かな凶暴さをまず予感させて、それからその人間が警察と関係があることをわからせ、え、ということは刑事?というような順番の方がはるかにいい。
そして、それをなるべく短い時間でどうつくるか。
北野監督が選んだ方法は、まず歩道橋をこちらに向かって歩いてくる吾妻を真っ正面から捉えることからはじめ、次に、その歩みを真横から追うアングルに画面が切り替って、しばらくして、その背景に警察署が現れるというつくりでした。
きれいなつくりです。

もちろん、歩道橋でなくてもいいはずです。
でも、映画をつくるなら、いずれにせよ、どこかの場所、が要りますね。
だって、どこかの場所でもない、背景が白紙、という映画はむずかしいですから。
だから、監督であるあなたは、どこかの場所を、ともかく、設定しなくてはいけない。
吾妻が向こうからこちらに向かって歩いてくる。
それをどこにするか?

きれいな並木道? スタイリッシュな刑事物語ではありません。
薄汚れた地方競馬場からの道? ふつうの意味での悪徳刑事物語でもありません。
繁華街? いや、これでも事件を感じさせたり、悪徳を連想させたり、ちょっと違いますね。

ぼくは、歩道橋がぴったりだと思います。
歩道橋だと、日常、特に意識していない場所だし、
ある意味、立場によって、いろいろな記憶があるし、
でも、町に雑然とした感じを与える、ちょっとざらざらしたノイズのような存在であることは、まあ、多くの人が共有している感覚だから。
そして、なにより、その感覚のつくることが、この映画の主題なんだから。

きっと北野監督にとって、「歩道橋は単なる歩道橋」ではありません。
彼にとっては、歩道橋は、どこか自分の感情を代弁するような存在なのではないでしょうか。
(そうじゃなければ、「菊次郎の夏」の高い防音壁のある歩道はなんなのか。)

この課題でやってみようと思うのは、まずは、あなたにとって、
そんなあなたの今の感情にぴったりとくる場所はなにか、
ということをひとつ、はっきりさせることです。
(ひとつ、というのは、そんな場所がいっぱいあることは当然だから。)

たとえば、そのひとつが「歩道橋」だとしますね。
で、その歩道橋を舞台とするシーンを考えてほしいのです。
どういう人がそこにいて、そこでどんなことになっているか。
あなたが感じる「歩道橋らしさ」がうまく生かされるシーン、ということですね。

そして、その同じシーンを、もし「歩道橋」を使わず、
あなた自身が設計する空間を使うとしたら、どんな空間にすればいいか。
その空間は、きっと、あなたが考える「歩道橋らしさ」が出ているはずですね。
というか、あなたが考える「歩道橋らしさ」がもっと純粋に、また強調されてできているでしょう。
そういうふうに空間を設計することが、「風景から建築へ」の意味ととらえてもらっていいです。

それにしても、「その男、凶暴につき」、なかなかいい映画だったでしょう?
感情の表現をしない映画のつくり。
そのあとの北野武さんの映画の特徴がもう最初からはっきりと出ている。
すごいことです。

「『その男』以外でズバリのシーンがある映画というとなんでしょうか?」
そんなもん、もちろんないことは、上を読んでもらえば、もうわかりますね。

対話編10 花→青 10

2010年9月17日 23:26【青木淳×花田佳明 対話

青木君へ

花田です。

今日は3年生の学生と、この課題について少し話しました。
例年と同じように、とてもいい頭のトレーニングになっていますが、同時に、「要するに何をすりゃいいんだ」症候群にかかっているのも例年と同じです。

学生諸君への勝手なアドバイスですが、重要なのは、「風景」を巡る下手な理屈をこねるより、自分の感覚を信じて「これっ!」と思う「風景」を決め、そこから「建築」的イメージを引き出す作業に意識を集中させることです。

「風景を巡る下手な理屈をこねる」しか能がない僕が言うのですから、間違いない。

<自分の感覚を信じて「これっ!」と思う「風景」を決め、そこから「建築」的イメージを引き出す作業に集中する>ことを自分に課してみて下さい。

これまで2回のオープンスタジオの経験からすると、その「建築化の作業」の部分にこそ宝物は隠れています。その作業をいろいろな「風景」についてやってみることです。


10月2日(土)は、青木さんによる特別講義とオープンスタジオの中間講評会です。公開形式ですから、どなたでも参加できます。テーマはもちろん「風景から建築へ」。青木さんによる「風景から建築へ」論です。
 ●14:00〜16:00 青木さんによる講義
 ●16:30〜18:00 青木さんによる中間講評会(神戸芸術工科大学の学生作品のみ対象)

また、この中間講評に向けて、芸工大では以下の2回、僕が相談に乗ります。
場所はいずれも3階会議室。遠慮なく来てね。
 ●9月23日(木)18:00〜
 ●9月29日(水)18:00〜

あ、それから、中間講評を受けたい人は助手の倉知さんへ連絡のこと。

対話編10 花→青 09

2010年9月17日 10:56【青木淳×花田佳明 対話

青木君へ

花田です。
第2便、ありがとう。

「だから、ぼくは、前の書き込みで書いたように、自分(たち)の今の生活をテーマとして、自分(たち)を主人公とする映画を撮るとして、そのなかの重要なシーンとして、皆さんがどんな場所をどんな感覚の場所として使ってみたいのか、それを知りたいのです。具体的であればあるほど、いいですね。」という最後の文章を読むと、あとはもう学生諸君の案を待てばいいんだという解放された気分になってしまいました(笑)。

もちろん思考停止というわけではないのですが、「風景から建築へ」というテーマが必然的にもたらす結果、かもしれませんね。
「風景」という言葉のもつ総合性のようなものの生む効果。

9月半ばとなり、そろそろ学生諸君が大学に戻り始めています。
昨日はオープンスタジオ入賞経験者2名と今回の課題について雑談をしたのですが、ひとりの学生は、「これまでの『模型から建築へ』と『ドローイングから建築へ』との関係を考えてみたら、今回の『風景から建築へ』には、過去の2つの課題で考えたことが含まれてしまうと感じた」と言っており、なるほど、と思いました。

今回は、「モノとコトの二分法のうち、これまでの2課題がモノ、今回はコト」というのが出発点だと思っていたのですが、ちょっと違うかもしれないという気がしたというわけです。
むしろ、モノとコトの両方を包含したものとして「風景」はある。この言葉には、そういう広さのようなものがありますね。
当たり前、かな。

ところで、「自分(たち)の今の生活をテーマとして、自分(たち)を主人公とする映画を撮るとして、そのなかの重要なシーンとして、皆さんがどんな場所をどんな感覚の場所として使ってみたいのか」という青木君からの問いかけを僕自身に投げかけてみると、これが困ったことに、全然イメージがわいてこない。
そのかわり、かつて思い描いたいくつかの「シーン」ばかりが思い出されてくる。
しかも、もうそこには絶対に戻れない風景として。
歳とった証拠、ですね。

たとえば、学生の頃に見た唐十郎のテント劇。
新宿副都心の、今はNSビルが建っているブロックがまだ空き地で、そこに張られたテントの中に、ぎゅう詰めになって演劇を見た冬の夜。
情けないことに劇の題名を思い出せないのですが、最後の場面で舞台後ろのテントが突然開き、夜の新宿の街が飛び込んできた。そして、その街のネオンやビルの明かりを背景に、救急車が1台、赤いランプを回転させながら、ゆっくりゆっくりと左から右へ横断していった。
僕は、都市の「風景」とはまさにこれだと感激し、「ああこんな卒計をやりたいなあ」と思ったのでした(きっと4年生の冬だった・・)。

青臭い話です。
でもそういう記憶は消えないもので、今の学生諸君が自然体で示す町や人への親和性のようなものが僕にはもうひとつぴんとこないのは、こういう風景とのギャップを感じるからだろうなと思ったりする。

一方、東京に対するそんな記憶と篠原一男の住宅とは、何の違和感もなく僕の中で重なります。
彼は「東玉川の住宅」の廊下を都市の街路に見立て、そこをよぎる人影のイメージのようなものを言葉で書いていましたが、その廊下の夜の写真と、新宿のテントの向こうを横切るスローモーションのような救急車の映像は、僕にとって、まさに「重要なシーン」としての都市の「風景」です。

もうひとつ僕の中にある「風景」。
手抜きで申し訳ないのですが、以前、愛媛新聞でやっていた連載で書いた文章をそのまま載せます(愛媛新聞「道標」(掲載 2008年8月31日)連載7回目)。

僕は「風景」について考えていくと、こんなふうにどんどん拡散していってしまう。
一方、青木君は具体的なものに踏みとどまることを求めていると思うし、きっとそれができる。建築家になれるかどうかの分かれ道だなとつくづく思う。
つまり、「風景」という言葉でモノとコトを統合する力をもっているかどうかということですね。
その「力」の「今」の様子を、学生諸君には示してほしいし、10月2日の特別講義で、青木君には語ってほしい。

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故郷がくれた原風景
--価値判断の物差しに--
神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 原風景という言葉がある。人や町の基底を形づくる映像的なイメージとでもいえばよいか。かつて奥野健男が『文学における原風景』という本で用いて一般化し、建築や都市を語るときにもよく使われる。戦争で廃墟となった都市、下町の路地、旅した国、深い森・・、さまざまな原風景を手がかりとして、小説や建築や芸術作品が生み出されてきた。
 一歩間違うと「国民共通の原風景」といった具合に、ナショナリズム高揚に利用されかねない言葉なので要注意だが、自分の中に原風景としか呼びようのない何かがあるのも事実だ。
 私にとってそれは、生まれ故郷・愛媛の山村が喚起するイメージである。
 私は昭和三十一年に野村町(現在の西予市)に生まれ、小学校三年生の秋までそこで暮らした。
 記憶があるのはわずか四、五年のことなのに、気がつくと当時のさまざまな風景の中を歩いている自分がいる。
 霧に包まれた通学路、野村小学校の木造校舎の靴ぬぎ場、大きな銀杏のある校庭、週末通った病院の帰りに乗る夜のバス、住んでいた家の台所の土間、農薬を食べて死んだ愛犬・・。断片的な映像が次々に浮かんでは消え、その中にいる自分を見ている自分がいる。
 しかしそれが原風景かというと少し違う。私の中には、これらの断片を束ねるもうひとつ別のイメージがある。それは、今書いたような映像が野村町の盆地の底で物語を編む様子を上空から眺めた鳥瞰図だ。
 都会から遠く離れ、周囲を山に囲まれて閉じた世界の底にあるユートピア。大袈裟と笑われるかもしれないが、野村町の空間と生活をそんな言葉に抽象化すると、それが自分の原風景だと納得がいく。そしてこのイメージが、私の価値判断の物差しとして、長く機能してきたと思えてならない。
 そのことを強く意識したのは、十四年前に四国の公共建築を見て回ったときだ。内子町から車で八幡浜市に向かっていた。目的は八幡浜市役所で活躍した建築家・松村正恒が設計した日土小学校などを見ることだった。
 両側を山にはさまれた谷筋の集落を車で走るうち、身体の中に不思議な感覚がわき上がるのを意識した。そして日土小学校の校庭に立った瞬間に、「ああ、懐かしい」と思ったのだ。もちろん初めて訪れた場所である。しかし、谷筋を流れる川に沿って建つ日土小学校の静謐な空間の中を歩き回るうち、私は私の原風景の中にいた。そこはまさに、谷の底にあるユートピアだった。東京から遠く離れた場所でひとり傑作を設計し続けた松村という人物も、似た原風景の持ち主だったのではないかと直感した。
 振り返ってみると、私が憧れ、敬意を払ってきた人や建築は、すべて中央から距離をおいた批評性をもっている。そして、自分が憧れ、敬意を払うに値する相手かどうかを考えるとき、あの原風景が甦り、それとの整合性を確かめてきたように思えてならない。自分の中にそういう核を植えつけてくれた故郷に、私は心から感謝している。

応募登録締め切りまで、あとわずか!

2010年9月14日 15:00【お知らせ

9月30日の応募登録締め切りまで、あと2週間あまりとなりました。

オープンスタジオ事務局には、連日応募登録のメールが届いています。

応募しようかな、と思っている方は今すぐ応募登録をしてくださいね。

応募登録については、こちらをご覧下さい。

お詫びとお願い

2010年9月14日 14:55【お知らせ

サーバー停止によるメール不達のお詫びとお願いです。

神戸芸術工科大学では9月11日(土)19:00〜9月13日(月)9:00まで、サーバーメンテナンスのためメールを受信できない期間がありました。

この期間に「オープンスタジオ 2010 への参加申込 」メールを送信して、サーバーエラーが発生し、メール不達通知を受け取った方は、オープンスタジオ事務局にメールが届いていない可能性があります。
自動返信メールを受け取った方は、問題ありません。

該当する方は、お手数ですがもう一度参加申込メールを送信してください。

オープンスタジオ事務局からのお詫びとお願いでした。

対話編10 青→花 08

2010年9月13日 15:27【青木淳×花田佳明 対話

『「風景」をどこかからもってくるのではなく、「風景」と「建築」をほぼ同時に構築する。』
まあ、そういうことですね、きっと。

本当のことを言えば、どんな建築にもどんな都市要素にも風景はある。
たとえば、煮ても焼いても食えないような、もうどうにもつらい空間がありますね。
歩道橋とか。
そんな歩道橋が、映画によく出てきます。
北野武の『その男、凶暴につき』。
歩道橋をこちら側から捉えたシーンがあって、小学生の子供たちが向こうに向かって走っていく。サティの「グノシエンヌ1番」が流れはじめ、小学生が消え去ると、向こうに、高速道路。下から、北野武がこちらに向かって黙々と登ってくるのが視界に入ってきて。主人公の吾妻の登場ですね。
そして、ラストも歩道橋。今度は、吾妻でなくて、後輩の菊地が登ってくる。
こういうのを、ぼくはいちおう、「風景」と呼んでおこうと思うのです。

「風景」というのは、
ある物理的な環境が、誘発してしまうなんらかの感覚をもったシーンのこと、
とでもしておきましょうか。

そう、『その男、凶暴につき』では、
歩道橋という風景は、
「煮ても焼いても食えない、もうどうにもつらい」静かなくらいの暴力という感覚を誘発するシーンとして描かれているのでした。

そういう「風景」と「建築」のセットをあなた独自でつくりだしましょう、というのは、あまりの難題です。

だから、ぼくは、前の書き込みで書いたように、
自分(たち)の今の生活をテーマとして、自分(たち)を主人公とする映画を撮るとして、そのなかの重要なシーンとして、皆さんがどんな場所をどんな感覚の場所として使ってみたいのか、
それを知りたいのです。

具体的であればあるほど、いいですね。