対話編10 花→青 07

2010年8月29日 13:40【青木淳×花田佳明 対話

青木君へ

花田です。
お待ちしてました。
僕だけがごちゃごちゃ書いていたので、青木君のすっきりした言葉の登場に、救われた学生諸君もいるのではないかな(笑)。

ところで、日土小学校のことから書き始めてくれてありがとう。
改修後の日土小学校を青木君が見たのが去年の10月末。
あのとき青木君は、「<抽象>には到らない丁寧さ」として日土小学校の空間の質を読み取ってくれて、僕は納得するとともに、建築家の眼の鋭さに感心をしたのでした。

「風景から建築へ」という今回の課題を考える上で、僕も日土小学校のことは気になっていました。まさにあそこには、さまざまな「風景」が「建築」化されていると思うからです。

ところで、僕の前回の投稿を読み返していて、ああそうだと思ったので最後のところに少し追記しました。それは以下の通りです。

【つまり、「風景」をどこかからもってくるのではなく、「風景」と「建築」を、若干のタイムラグを置きながらも(前者が後者より少しだけ先)、ほぼ同時に、自分の頭の中で構築しているすごさ、ということです。】

「風景から建築へ」という言葉を頭の中で転がしていて、第一便からずっと気になっていたのが、それと文脈主義・コンテクスチュアリズムとの関係でした。とりあげた事例や貼った写真で想像がつくと思います。

で、上記の追記を思いついた瞬間、「ああそうか。こう考えれば文脈主義・コンテクスチュアリズムとは違ってくるんだ」と思ったのでした。つまり、誰かのつくった「風景」を借りてくるのではなく、「風景」も「建築」と同時に自分でつくる、ということですね。

日土小学校の魅力も、そういうことなんじゃないかと思うんです。
両側のみかん山や川という自然の「風景」に融合するのではなく、そういったものと一体になったメタレベルの「風景」が松村さんの中で構築されていて、それを成り立たせるように「建築」が生まれている。少なくともそういう解釈が可能になる。
博士論文では「自己参照的メカニズム」と呼んだ構造ですが、それは「風景の自己生産」とも言えるんだと思ったわけです。

自分の研究に引き寄せた話で恐縮だけど、とても納得できた次第です。

あ、それと、青木君の作品もそうなんだとも思いました。たとえば「原っぱという風景」を「建築」でつくっているんだ、と。

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