対話編10 花→青 05

2010年8月28日 23:32【青木淳×花田佳明 対話

青木君へ

花田です。
「風景から建築へ」と言ったときに関わってくる問題を、ランドスケープというか外部空間と建築との関係というふうにとらえることもできるような気がします。これまでに取り上げた事例にも、もちろんそういう問題が含まれていますが、今日、今月の『住宅建築』(10月号)の「堀口捨己の思想的背景」という特別記事の中の、磯崎さんの「一本の線、一枚の壁、一組の立方体」という文章を読んでいて、とくにそう思いました。

磯崎さんは、有名な岡田邸(1933)の洋風の部分と和風の部分を区切る「一本の線」、秋草の庭の背景を成すコンクリートの「一枚の壁」、それに洋風の部分の中に隠れていたコンクリートの「一組の立方体」、それらによって、堀口は「日本という問題構制」と立ち向かったと書いています。「一枚の壁」については一般にもよく取り上げられるわけですが、今回磯崎さんは、最後のRCのフレームについてはこれまで意識しておらず、藤岡洋保『表現者・堀口捨己―総合芸術の探求 』(中央公論美術出版)のなかに描かれているアクソメ図で気づいたとのことで、とくに強調していました。近代の圧倒的な制度としてのコンクリートの立方体フレームを、堀口は、岡田邸の中に見事に「隠蔽」したというわけです。

でまあそれはともかく、あらためて岡田邸の8畳間から池と芝庭を見た有名な写真を眺めていると、これこそ「風景」を考えることで「建築」を作った例に思えてきたわけでした。
okadatei.JPG
構成的なコンクリートの壁、その間を埋める草庭と芝庭と水と玉砂利、そしてそれらに重なる畳とシンボリックな木の丸柱。まさに、西欧的な近代と日本の伝統という問題を掛け合わせるとはどのようなことかという思索の果てに生まれた「風景」が「建築」になっている、ような気がします。

つまり、「風景」をどこかからもってくるのではなく、「風景」と「建築」を、若干のタイムラグを置きながらも(前者が後者より少しだけ先)、ほぼ同時に、自分の頭の中で構築しているすごさ、ということです。

こういう思考の現代版、見たいです。