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吉丸貴一郎 九州産業大学 工学部 建築学科 4年

025yoshimaru

【講評】
大小さまざまな、またいろいろなプロポーションの四角い窓のようなものが、画面のなかに、ちらばっています。そのちらばり方には、強いコントラストが見られません。整然というわけではないけれど、お互いがお互いとの距離を考えているようなバランスがあります。そのため、大きな1枚の壁があって、そこにさまざまな窓が開いているような「並列性」を感じさせます。その並列性と、身体や事物の平坦な描かれ方があいまって、ここには、独特の世界観が表われています。この世界観に忠実な建築空間とはどのようなものなのだろうか、興味をもって、最終講評案を待ちたいと思います。(青木淳)

コメント(19)

TITLE: ご講評ありがとうございます
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講評と選出ありがとうございます。
誤解していなければ、講評のなかにある通り、今回のドローイングは、要素や事物を平面的に、並列的に描き、それら相互間に生まれる、様々な経験を思考しながら、空間を変容させていくことを意図して描いたものです。
今のところ、上手く言えないのですが、要素の同時的な現れによる眩暈のような状態はまだ描けていません。どちらかというと、まだ形式的な図式?(ダイアグラム)よりで表現的な図式?(ドローイング)とは言い切れないものだと思います。にも関わらず、可能性を嗅ぎとっていただけたこと、チャンスをいただけたことに感謝いたします。
これから、操作媒体として図面や模型も用いながら、飛躍と着地を繰り返し、より強く、良いものにしていきたいと思います。
少々、くどい文章になってしまいましたが、御指導の程よろしくお願いいたします。

TITLE:
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建物や都市を一巡した後、その時系列に沿った経験が、ここに描かれているような何らかの「枠」で切り取られた映像群、しかも互いにフラットな関係にある映像群で(しか)思い出せないとしたら、それは逆にどんな建築、あるいは都市なんだろうと考えました。で、僕には答えが出ないのですが、そんなイメージを勝手に抱いたことはとても面白かった。
全く的外れな印象かもしれません。とにかく期待しています。

TITLE: 花田先生、ありがとうございます
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花田先生、早速のコメントありがとうございます。
「全く的外れな・・・」。とんでもないです。コメントを読んで、別の語り口が見えてきました。それは、今回のドローイングで描き、見出そうとしていることは、例えば、「枠物語」の「経験」と似たようなものであるということです。『千夜一夜物語』、カルヴィーノの『レ・コスミ・コミケ』や『見えない都市』などの一連の作品、或いはエンデの『鏡の中の鏡』などの作品を読んだ後の「経験」は言葉にして、人に説明することが難しいものだと思います。リニアに語れない。もちろん、一つの「枠」の中には独立した物語−経験があるわけですが、「枠物語」という形式において、その個々の経験は抜き出してきて語ることができない。つまり、あらすじにそって感想を述べるようなことはできない。それは、作品に相対するたびに、全体をかたちづくる或る種の質感が、個々の「枠」を融解させ、同様ではない、多様な「経験」を生み出していくからだと思います。僕は本当は、ドローイングを見た人たちの目の中にそういう現象を引き起こすようなものが描きたかった。しかし、やはりそれは難しいことなのだと思います。ちょっと無謀だったかな・・・と今更ながらに感じています。でも、やりはじめた以上、あきらめずにやってみようと思います。
もう一つ、コメントのなかに「映像群」という言葉があったのですが、「なるほど」と逆に納得したことがあります。自分の中では、自らの手で描いたものが「映像」であるという認識はなかったのですが、しかし、「映像」であると考えれば、理屈が通る。まさにここに、「経験」に構成していく鍵がある。少し前進できました。
刺激が大きかったので、長文になってしまいました。ありがとうございます。

TITLE: スタディ
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石上純也のドローイングの強度は、そのなにげなく描かれた風情にもあるのかもしれない。今の自分のドローイングは建築を考える手法としては、プロセスが複雑すぎる。

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いろんな人にコメント書いてますね。課題のこととは関係ないですが、ここって大学とか年齢とか立場とか時間とか、そういったものを意識せずにある意味ボーダレスに議論できる場所だなと思います。2chみたいな匿名性というか、(完全には匿名じゃないけど、名前出てるし)この課題に参加した人が一つのテーブルについて、ざっくばらんに議論してる感じ。これもストラクチャーですね。

以前、SPACESPACEの香川さんがストラクチャーの話をされていて、こういった話になりました。アーキテクトって建築家って意味じゃなくてもっと広い意味だよって。建築家も建築の構造を考えるだけじゃなく、いろんな水準でストラクチャーを考えてる。それは設計プロセスのストラクチャーであったり、社会のストラクチャーであったり。ドローイングもその一つかなって思いました。

僕は、吉丸さんのドローイングを見て、「10+1」No.49で東北工業大学の槻橋修先生が書かれていた「離散的ランドスケープは21世紀のヒューマニズムを獲得できるか?」の記事が浮かびました。ここで槻橋先生は,「遠近法というのは空間ではなく主体たる「観測者」のほうに属するものであった・・・」と書いていました。吉丸さんのドローイングはコラージュではないですが、無数の断片的な「風景」が同時に存在していて、しかもそれが並列的に扱われている。こういった方法で空間を認識することも可能なのかと驚きました。

(偶然かもしれませんが、この記事でイヴ・ブリュニエのドローイングが紹介されてました。)

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山神くん、コメントありがとうございます。興味深かったです。詳しくはまた後ほど返答します。

TITLE: 青木先生より召喚されました
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はじめまして。10月より神戸大学にきました、槻橋修です。青木先生よりご案内いただいて、一筆失礼します。
吉丸さんのドローイングに対する山上さんのコメントに拙稿を引用していただいて光栄です。補足させていただきますと、「10+1」No.49で書いた原稿は10年ほど前の「10+1」No.9で書いた『観測者のランドスケープ』という論考(私がはじめて挑戦したまとまりのある論考でしたが)で辿り着いた世界の離散性をめぐる問題と、それを10年間抱えての現状認識を整理したものでした。原広司先生の元で「離散型集落」に関する集論文を書いたこともあって、自分がテーマにした「離散」の概念を消化=昇華するためにイヴ・ブリュニエの作品研究が良い契機となりました。ロバート・スミッソンの考え方(サイト/ノンサイトの弁証法)も大変助けになったことを覚えております。
自分の話はさておき、吉丸さんのドローイングは大変魅力的ですね。よく見ると、平面なのか、断面なのか、室内なのか、水の中なのか、人なのか人魚なのか、定かでない感じが面白いなと思いました。それは重力=浮力あるいは、視覚(観測)と重力に関することなのかもしれませんね。
そう考えたときに気になってくるのは、魅力的な「遠近法的額縁」が、全て四角い部屋を連想させることです。やっぱり四角い部屋の集まりが、建築なのでしょうか・・・あるいは<タブロー>はやっぱり四角なのか?と愉しい問いをたてております。
最終講評会にはお邪魔させていただきたいと思います。楽しみにしています。

TITLE: ありがとうございます
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槻橋先生、はじめまして。非常に刺激的なコメントをありがとうございます。
そして、山神くん、改めてコメントありがとうございます。
「この課題に参加した人が一つのテーブルについて、ざっくばらんに議論してる感じ。これもストラクチャーですね。」そうですね。建築に関する議論のテーブルがネット上に置かれているということは、どういうことなのか。その社会性を考えていく上でもまたとない機会だと思います。また、理想論を述べてるけど、ドローイングを巡る言葉が深まって、ここでの議論がこれからの建築の方向を考えるうえでの知の集積、アーカイブのひとつとして参照されるようなことになったら、それは最高だなとか思っちゃったりしてます。すくなくとも、そのチャンスを与えてくれるこの課題の在り方はすごくおもしろいものだと思います。
「「コラージュ」ではない」。概念の使い方が混乱しているかもしれませんが、確かに事物の同時認識が目的ではなく、同時連関を考えていくものなので、コラージュ的というよりモンタージュ的なのかもしれません。ひとつ整理できました。でも、描いているのは「風景」ではないと思うのです。いや、単純に表現力不足なんですが・・・。槻橋先生の論考で「遠近法というのは空間ではなく主体たる「観測者」のほうに属するものであった・・・」とあります。「風景」もまた「観測者」に属するものだとおもいます。自分でも上手く言えないのですが、描こうとしているのは「風景」のように対象化されたものではなく、環境=現象としての事物なのです。わけわかんないですね。
槻橋先生のコメントで〈タブロー〉に関する言及がありました。眼から鱗が落ちる思いです。これは、果たして〈タブロー〉なのか・・・?また、無理かもしれませんが、四角い部屋も何故「そうであるのか/そうでないのか」という知見がだせるところまで問い直せたらいいのかもしれません。

TITLE: 投下
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山神くんのコメントでのSPACESPACEの香川さんのお話から、藤村龍至さんの「批判的工学主義」を思い出しました。まだまだ不勉強でこんなこと言うのもちょっとあれなんですが、僕は、結構根っこの部分では、藤村さんに共感している部分があって、90年代の初頭に想像的に語られていたような空間のヴァーチャル化のようなものではなく、端的にテクノロジーの発露として、ヴァーチャル空間と物理的な空間が目の前の現実として混濁していっているような(或いは語りの形式がそこで停滞していっているような)状況で、データの統合過程としての設計プロセスとその社会性=政治性を考える余地はありだなと思っています。また、そうなってくると、藤村さんの場合は、データを整理・統合する手法として「線形設計プロセス」みたいなことを言われているけど、どうやらこれからはその手法=形式を、発明、選択、洗練していくことが作家性と呼ばれることになるんじゃないかなと考えたりもします。こういうことを考える上で何が一番問題かというと、内容と表現の乖離、データの解釈とモノの表現の乖離の問題をどうするの?という視点がすっぽ抜けてしまうことだと思う(特に建築は圧倒的に物塊であるし)のですが、青木先生のいうドローイングやモケイ等の「図式性」を考えるということはそれらを繋ぐことに関する思考ではないだろうかと推論しています。まだよくわかりませんが、そこで槻橋先生の事物の「離散」概念の構造に関するお話(誤解しているかもしれません。No.9は手元にあるのでもう一度読み返してみます)やアトリエワンの塚本さんのいう「モノのふるまい」などの話が密接に関わってきそうな気がします。

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コメントありがとうございました、吉丸くんの作品で思ったことは、
(1)背景がないということ
です。遠近がかかった額縁(の中、あるいは手前)に描かれている植物や動物・物・状況などを表した輪郭線からは、静寂とした雰囲気というか海の奥底の静けさみたいなものが感じられます。(でも風は吹いていそう)
だけど背景がなくて、それをバックに楽しい人間の姿がある。すごく自由な場所だということを表しているそして、背景を感じないからその人間たちがどのようにそこに行き着いたのかも分からない。吉丸くんの希望というか提案がそのような場所なのか、と考えると素直(ぼくが)すぎるとも思うし、十字に切り取られた枠のさらに奥に十字の影のようなものが写ってるけど、そこだけは背景があるようにも感じさせる。「個々の「枠」を融解させ、同様ではない、多様な「経験」を生み出していく」と吉丸くんが言うように、ここにはいろんな経験が表現されているある種の動的な関係(花田先生のいう映像)ということと、心象風景としてのドローイングだということが読みとれました。
そのあとのドローイングあるいは建築にもっていく操作として、背景のこととか、枠の融解の仕方?が気になりました。

ちなみに、吉丸くんがぼくの作品でコメントしてくれた内容で「眼のデザイン」という言葉があったけど、それが気になって図書館へ行って、今、『第三の眼』という本を読んでいます。http://www.amazon.co.jp/gp/product/4796702873/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_2?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4331850013&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=05KES289NCS7NZ4665MK
心象風景
http://park16.wakwak.com/~hjm/wisdom_doc.html#Anchor648916

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コメントありがとうございます
『第三者の眼』おもしろそうな本ですね。時間があれば、手にとってみたいと思います。
詳しくはまた後日返信します。

TITLE: コメントありがとうございました。
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遅ればせながらコメント本当にありがとうございました。
勉強不足で言葉が拙く誠に申し訳ないです。このように作品やコメントを文脈に匿名性を持った議論は多分この雰囲気でしかできないとおもうので・・・しっかり参加させていただいきますね。

ドローイングに描かれている人、行為、情景、についての距離のありかたであったり壁(という表現であっているでしょうか?)の質感、色、厚み、開口、がものすごく印象に残りました。不思議なつながりを持った短編小説?のような(上手く言えません非常に申し訳ないです。)この独特な距離繋がり並列性を持ったものも結末はどうなるのかを期待しながら、自分自身もがんばりたいと思っています。

個人的には右上の木が気になりました。他とは違う方法(ニュアンス?)で関係を調整しているような気がして・・・

よければまたコメントください。

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古家君、コメントありがとう。ちょっと4日間ほど制作に没頭するので、詳しくはまた後日返信します。

TITLE: コメント遅くなりました
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コメントの返信遅くなりました。吉村君に古家君、コメントありがとうございます。はやいもので、提出があと2週間とちょっとというところまでせまってきましたね。すすんでますか?僕は結構まずい状況においこまれていますw
さて、吉村君のコメントで「心象風景」という言葉がでてきました。これに対しては(力不足で、そう見えてしまっているのですが)僕としては“違う“と言いたいです。何故かと言うと、今回の「ドローイングから建築を考える」では、現実で建築をつくるときに関わってくる諸々の条件を括弧に入れた上で、ドローイング→建築が生み出す様々な可能性を探っているのだと僕は考えているのですが、そういう風に抽象的に考えていく際にも、やはり捨象してはいけないことがあるのではないかと思うからです。それを一言でいうと、建築をつくるその正当性を疑い続ける態度だと思うのですが、それは自分のやっていることを「心象風景」の表現であるとしてしまった瞬間に失われてしまうと思うのです。もちろん、自分の表現には恣意性がなくニュートラルで正当性があるなどと言うつもりはありません。ドローイングを見ると、ペインティングにどうしたって説明不可能な部分がでてきてしまっているし、そもそも或る形式を選択した時点で恣意性は発生してしまいます。そして、それが特別な世界観など持ってない自分が「ある質感」をひねりだすためには不可避な事であることも重々承知しています。いつも思うのですが、この辺は難しい問題ですよね。考えすぎると手がとまるし、考えないといい加減なものになる。自分では魅力的な空間をつくるしかないとも思っているのですが・・・正直、まだ自分自身答えが出せてません。
もしかしたら、僕の言葉づかいのいい加減さがそのように思わせてしまう要因であったかもしれません。例えば、僕はいろいろなコメントで「表現」という言葉を多用しています。今回のドローイングの方法的な話にも関わってくるし、それは古家君への回答にもなると思うので、この「表現」で何を言っているのかをいうと、個人の内観表現ではなく、記号表現的な意味合いで使っています。ドローイングではばらばらな記号を並列的に同時に描くことで、そこからの意味の創出を個人的なものから共同的なものにできないかと考えました。描かれているものを情報に還元し、ニュートラルなものにしていこうとしているのだともいえます。そしてその情報から見出されてくる「体験」がタブローとして設定されている枠を塗り替えていくと同時に、枠自体もまた情報に還元していくという動的な関係を描こうとしました。この空虚な流転平面はそれだけではただの「体験発見装置」です。この「体験」を「行為」につなげ、そして「経験」に織り上げていかなければなりません。その際に要請されてきたもののひとつが人体です。しかし、これはまだ上手く描く方策が見つかっていません。もう一つが物質化の契機です。情報になって物質性を剥奪された事物を、或いはそれらが生み出した関係をもう一度物質に戻していくことです。今まで書いてきたことは、青木さんが中間講評会でいわれていた「抽象と具象の間での作業」に対する僕なりの解答でもあります。
文章を書いているうちにヒートアップして、かなりの長文になってしまいましたw
リスキーだなぁと思いつつ、でも、最終講評会の五分でこんなハイコンテクストに話せる自信もないので、ブラシュアップの契機もこめて書いておきます。

TITLE:
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吉丸君は、吉村君が引用した『心象風景』について”違う”と言っていますが、それはあまり考えなくていいことなのかと思います。というのも、僕の理解では心象風景というのは、超客観的(第三の眼)の立場から見て初めて生じるものだから。そこに作者の意図は介入する余地がないように思うから。否応なく生じるものでは。
とはいえ、それをデザインすることには意味があると思います。

僕はこのドローイングをみて良いなと思うのは、余白です。記号的な意味”しか”もたないそれぞれの額縁と中身が、整然と平面的に配置されている様子は、まさに”経験の過程”そのもののように感じます(脳で情報が整理されていく過程というか)。その平面的記号の集合の余白から、なにか平面を超える契機を感じます。

僕にはそういう抽象的なことまでしかわかりません。なんか思考をかき乱す感じになっていたらすいません><

ちなみに、心象風景についてのページは個人的にかなり納得できました。

TITLE: コメントありがとうございます
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いや、むしろ思考をかき乱されたいのです。だから、コメントしてもらうことはありがたいです。
僕の読みが間違っている可能性もあるのですが、金田くんのコメントで、第三の眼の立場から見られたときに心象風景は初めて生じるとありましたが、確かにその通りだと思います。しかし、であればこそあの心象風景に関する論考にちょっと納得できないのです。うまく言えないのですが、僕にはあの論は<他者>に開かれていないものに見えてしまいます。いくつか納得するところもあるのですが、結論では予定調和的に自己の幸福を謳う。第三の眼は単一でしょうか?僕は違うと思うのです。固い文章になってしまいました。すみません。

TITLE: 失礼しました
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僕の方のコメントを見て書き込ませていただきました。
すいません、周りがあまり見えていないようでした。

吉丸さんの作品を見て、吉丸さんから僕に対して言われたコメントがここに表現されているような気がしました。

具体的に言うと難しいのですが、

様々な方向から見たもの(ブロック、枠?)が、一つの平面上になんらかの関連性をもつように描かれていて、でもよく見ると、その一つ一つも、実際に見られる現象や風景を裏切っているように見えました。

重ねて失礼しました。

TITLE: コメントありがとうございます
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そんなに気になさらないで下さい。お互いさまです。
コメントを頂いて、ヒントひとつもらいました。僕の作品でも関数を考える余地は充分ありますね。もしかしたら、行き詰まりを突破するヒントかも・・・・

TITLE: スタディ
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やっと、なんとなくわかってきた。
経験そのものを表現するのではなく、間で経験を考えるということか。

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