対話篇09 青→花 7

花田くんの判断どおり、このスケッチは、ここで言う「ドローイング」には入りません。
その空間がどんな空気の質をもっているのか、読み取れないからです。
ぼく自身は、このスケッチから、実は、ある特定の空気の質を実感するのですけれど、他の人は、きっと、感じとることができない。だから、ドローイングとは呼べない。
つまり、(ここで言う)「ドローイング」というのは、自分だけでなく、第三者を想定した絵のことです。

前に、丸山直文さんのアトリエにお邪魔して、お話しを聞く機会がありました。たしか、若い作家の話をしているときのことだったと思うのですけれど、丸山さんが、「やっぱり、どこかで第三者の視点も持って描いていないとねえ」と言われて、へー、美術であっても、第三者の視点が大切なんだ、とちょっと意外に思ったことがありました。美術というものが、自分はこう感じる、こう思う、ということから出てきているのは、まあ、たしかにそうなんだけれど、それを実現していく過程では、人もその作品によってそう感じるか?という視点も必要なのですね。そうでないと、独りよがりの作品になってしまう。つくること一般に、第三者の視点が大切、ということを、つくづく思いました。

ということで、「無意識の感覚的な落書き」の多くは、第三者の視点が入っていない、という点で、ぼくも、(ここで言う)「ドローイング」には入らないだろうと思っているよ。なぜ「多くは」と保留つきにするかと言うと、「無意識」のなかに、第三者の視点が入っている場合もなくはないし、「落書き」にも人の目を意識したものもあるだろうからだけどね。(「感覚的」なのは、おおいに結構。)でも、「無意識の感覚的な落書き」という言葉で、花田くんが言おうとしているのは、つまりは、自分だけがわかっていればいいという独りよがりの絵、という意味だと思う。

もっとも、とっかかりは、別に、「無意識の感覚的な落書き」でいい。そして、そこに感じられる世界が気にいったら、その気にいったところをはっきりさせーつまり、一歩引いて第三者の視点を入れーそれを伸ばすように、次の絵を書く。その絵が、いや、違うなあ、と思ったら書き直す。うまく行ったと思ったら、もっとうまくいく絵を書いてみる。そういう絵が、つまりは、(ここで言う)「ドローイング」というわけ。

その「第三者の視点」として、「言葉」という道具がある。しかも、すごく強力な道具として。でも、それでも、「言葉」は、その「第三者の視点」のひとつだというのが、ぼくの考え。
ぼくは、設計を進めるとき、「ドローイング」という道具をあまり使わない。(プレゼンテーションとしては、もちろん使うわけだけれど。)たいていの場合、模型をつくって、それを見て、設計を進める。その判断のなかで、「言葉」も使う。でも、「感覚」のままに残したまま進めるところも多い。というのは、簡単に「言葉」にしてしまっては、失われてしまうものもあるから、ね。

10/3の中間講評会のお知らせ

中間講評会

日時
2009年10月3日(土)

プログラム
14:00〜16:00 講義:青木淳「ドローイングから建築へ」
16:00〜18:00 中間講評会(神戸芸術工科大学の学生作品のみ対象)

会場
神戸芸術工科大学 デザイン教育センター 1114教室
アクセス方法は→こちら

どなたでも聴講可能です。席は当日先着順/入場無料

お問合せ先:
神戸芸術工科大学 環境・建築デザイン学科 事務室
神戸市西区学園西町8-1-1 078-794-5031

対話篇09 花→青 6

昨年は「書いたよー」とお知らせメールを送り合っていましたが、今年はarchitecturephoto.netさんのフォローが驚くほど早く、お知らせを交換しなくても、朝起きてまずそこを覗くと青木君から返事があったことがわかります。このサイトへのアクセス解析でも、経由先としてダントツの多さ。architecturephoto.netさん、ありがとうございます。

さて、「でも、そのドローイング、なぜ「無意識の感覚的な落書き」ではだめなの?」というのは覚悟していた反応です。きっと昨年の「模型」のときも、それから普段でも、青木君と話していると必ず一度は遭遇してしまう齟齬感ですね、きっと。
言葉と建築(というか、ドローイングや模型、あるいは要するにモノ)の優先順位を、ほんの少しでも言葉側に寄せた途端、青木君からはさっとイエローカードが示される(笑)。

なので、例によっての返事になってしまいますが、僕はべつに「言葉帝国主義」を振りかざしているわけではなく、「無意識の感覚的な落書き」には「言葉」がないからだめだ、と言っているつもりもありません。
そうではなくて、ある「無意識の感覚的な落書き」から「建築へ」の飛躍や接続が可能ならば、その「無意識の感覚的な落書き」からは必ず「言葉」が引き出すことができ、そうなった途端、僕にとってそれは「無意識の感覚的な落書き」などではなくなるということだけなのです。

「「言葉」が引き出せないといけないのか」、という質問がすぐに飛んできそうですが、「無意識の感覚的な落書き」を描いた本人には難しくても(何しろ「無意識」なんだから)、別の人間が引き出せるかどうか、しかも優れた言葉が引き出されるかどうかこそが僕にとっては重要な問題であり、まさにその引き出し役、いわば翻訳者でありたいと思っています。

ただし、翻訳したくなる「無意識の感覚的な落書き」とそうじゃないものとがあるわけで、その両者を区別する判断は「言葉」ではおこなっていない。なぜなら、何しろ「言葉」を引き出す前なんだからできっこない、できてはいけない。でも別の何らかの方法によってできている。

言葉と建築(というか、ドローイングや模型、あるいは要するにモノ)の関係で一番面白いのは、まさにこの両者の境界線を、いずれの方法にもよらずふっと越える感覚なんだと思います。学生諸君に期待しているのは、もちろんこの一瞬の越境を可能にする企てです。


ところで、10月3日、神戸芸工大での講義と中間講評、よろしくね。
もちろん学外の方もOK。多数のご参加をお待ちしています。

で、今日はその講義のポスターをつくろうとしていたのですが、タイトルはもちろん「ドローイングから建築へ」ですが、何か「ドローイング」も要るよなあということになり、青森県立美術館のときの以下の断面スケッチを挙げた人がいたのですが、これは今回の課題にいう「ドローイング」なのか僕は迷い、結局、特別な絵は入れずにデザインしました。
どう?というのは、この断面スケッチは今回青木くんの言う「ドローイング」の範疇にはいるものなのかな。
aomori

質問ついでに、以前書いた2つの質問にも触れてもらえると嬉しいな。
(1)第1信での質問
青木君にとって、「建築」へと展開した、あるいは展開するといいなあと思う「ドローイング」というのは、たとえばどんなものですか。つまり去年の「晶洞(ジオード)」に相当するもの。

(2)第2信での質問
「模型」という言葉は青木君の設計と結びつけてイメージできたんだけど、実は「ドローイング」という言葉は僕の中では青木君とあまりつながりません。そういう発想で青木君、設計してるの?

対話篇09 青→花 5

模型も現実の建築より抽象度が高いけれど、ドローイングは、それよりもっと抽象度が高い、と。少なくとも、高くできる可能性がある。それが模型とドローイングの違いなのか。なるほどね。

ともかく、ドローイングでは、柱があったら幻滅してしまうような、ある特定の質の建築イメージを、とりあえずそこにかたちづくることができる。でも、柱がないというのは現実としては困るから、どうやったら柱があるのに柱がないようにできるか、ということを考える。構造の問題として考える。柱の大きさ、形状、分布の問題として考える。柱の表現の問題として考える。そういう考えることのなかに、おもしろい案に膨らんでいく契機がある。抽象と現実とのこのギャップ、あるいはその解消が建築のおもしろさですね。

でも、そのドローイング、なぜ「無意識の感覚的な落書き」ではだめなの?

# 対話篇09 青→花 5

模型も、現実の建築より抽象度が高いけれど、ドローイングは、それよりもっと抽象度が高い、と。少なくとも、高くできる可能性がある。それが模型とドローイングの違いなのか。なるほど。

ともかく、ドローイングでは、柱があったら幻滅してしまうような、ある特定の質の建築イメージを、とりあえずそこにかたちづくることができる。でも、柱がないというのは現実としては困るから、どうやったら柱があるのに柱がないようにできるか、ということを考える。構造の問題として考える。柱の大きさ、形状、分布の問題として考える。柱の表現の問題として考える。そういう考えることのなかに、おもしろい案に膨らんでいく契機がある。抽象と現実とのこのギャップ、あるいはその解消が建築のおもしろさですね。

でも、そのドローイング、なぜ「無意識の感覚的な落書き」ではだめなの?

対話篇09 花→青 4

ミースの話を書いたのは、たまたまMOMAのデータベースに画像があったからなのでしたが、さすがにいろいろと考えさせてくれますね。
青木君の言うように、彼のドローイングのひとつの特徴は、背景に広がる「死んだような町」ですね。そこに、人や車を「描かなかったこと」によって、彼の描写、つまり「描くこと」が特徴づけられている。
ミースの住宅のスケッチには人が描かれることが多いけど、しかしそれでもぽつんとひとり、しかも人が、ではなく、その影が描かれているような描かれかたですよね。つまり、そこでも人を描かないことが描かれている。

そういったドローイングを見ていると、神としてのミースがまずは空間だけを創造し、人間はこれから徐々につくっていこうとしているような感じすらします。

で、こういう感じって、模型だとどうなるんだろと思ったんですね。
そしたらMOMAのデータベースにはちょうどスカイスクレーパープロジェクトの模型もありました。
これ自体は後に作ったもののようですが、ミースの当時の模型写真もいろんな本に出てますよね。円形のコアが2つあって、外形も曲線のやつ。
残念ながら平面図はこのデータベースにありませんが、その図面とこの模型の一番の違いは、図面には柱が描かれてなく、模型にはそれがあるということだと思います。別の例だけど、この平面図にも柱がないですよね。やはり、こういうふうに見せたいと思ったんでしょうね。

でも一番すごいと思うのは、前回書いたようにやはり立面図で、これは足元に既存部の建物のシルエットが描いてあるから、かろうじて高層建築だろうとは想像がつくけど、それにしても、装飾や三層構成やらによって何らかの分節があるという古典的な建築の常識からすると、何とも不可解なオブジェなわけです。
でも、柱のはいった模型の方からは、あまりそういう異界の雰囲気のようなものは漂ってこない。

ドローイングと模型の違いを見出そうとすると、こういうことかもしれないなと思います。
つまり、ドローイングの方が、さまざまな言語的思考を反映させたり、そこから引き出したりしやすい、ということ。

もちろん次元がひとつ少ないわけだから、具体性が減り抽象度が増すのは当然といえば当然ですが、むしろそれによって表現できる世界がかえってクリアになる。

だから、僕が今回、学生諸君の「ドローイング」に期待しているのは、昨年の「模型」以上にそこから言葉が引き出せる表現です。
ドローイングって、無意識の感覚的な落書きではなく、何らかの意図のもとで描かれる知的な表現行為なんだと思う。「模型」は逆に、それによって意図を確認する道具だったような気がします。

対話篇09 青→花 3

課題への答えがわからなくて困っているのではなくて、この対話篇に書くべきことを思いつかなくて困っているのです、もちろん。

ミースのこういうのには、人っこひとりいない。自動車も走っていない。ずっと向こうまで、建物が立ち並んでいる。その建物からは建物らしい細部が欠けていて、黒々とした岩石の塊のよう。それら整然と佇む塊の群れを従えて、「スカイスクレーパー」が、ひとり剣山のように、とことん硬質の透けた結晶体として、屹立している。長い時間をかけて、垂直に析出し、水晶のよりずっと重い質量をもった結晶体。まわりの凡庸な岩石と比して、その岩石のあまりの高貴。人の存在の前に、完成し完結したもうひとつの自然世界。人は、そのなかにただ迷いこみ、彷徨い歩くのみ。

そうした建築のありかたが、ここにはっきりと定着できているのが、すごいね。ある意味では、ミースの建築は、この世界観の現実世界への定着行為であったのかもしれないと思ったりします。

[対話篇09 花→青 2]

3週間近くたちましたが青木君から返事がありません(笑)。
実はメールでやりとりしているのですが、

  うーん、こまった。。。。
  なにも思いつかない。。。
  こまった。。。。。

という返事が返ってきたきりなのです。
学生諸君、「自分が困るような問題出さないでくれ」なんて責めてはいけませんよ。
先生の仕事は、自分ができなかったことを学生にやれるようになってもらうこと、なんですからね。
むしろ、青木さんでさえこんな調子なんだと思うべきです。
出題者でも答えに困る。つまり、あらかじめ予定されている答えはないということですね。
いいかえれば、皆さんにいくらでもチャンスがあるというわけです。

それはともかく学生の皆さん、応募登録だけは早くして下さいね。締め切りは9月30日。もうすぐですよ。

実は僕も困っています。
青木君に送った督促メールに書いたことをもとに、「埋め草」の第2信。

昨年の課題・「模型から建築を考える」のときは、「模型」が3次元のものだから「模型」と「建築」は近いものに感じられ(「模型のような建築だ」という悪口があるくらい)、「両者の違いってどう考えてるの」「青木さんの言う「模型」って何」といった質問から始められたんでしょうね、きっと。
で、それがけっこう思考を刺激した。つまり、「模型」って身近なものだけど、あらためて考えるとあれは一体何なんだろう、と。

ところが今年の「ドローイング」は2次元なものだから、「そりゃまあ建築とは違うよな」「何かイメージを喚起するような絵を描きゃいいんだろ」みたいな感じになってしまって、ちょっと突っ込みどころを失うところがあるのかもしれませんね。
それと、建築の世界には「スケッチ」という似たような言葉があり、「ドローイング」という日本語は、建築の設計作業の中ではあまり使わないから、「模型」以上に戸惑う部分がある。
でも、スケッチというと、与条件に基づいて建築を考える作業に取り込まれた具体的なさまざまな絵に一見思えるけど、その与条件そのものを見直したりつくったりする、つまり今回きっと青木くんが「ドローイング」と呼ぶものに近い場合もありそうにも思います。

たとえば、ミースのスケッチ(ドローイング?)で、こういうのや、こういうのや、こういうのを見ていると、つくづくそんなことを思います。

つまり、絵が具体的か抽象的か、リアルかファンタジックか、みたいなことは関係ないんですね。
鉛筆で描かれたこの黒々した塊が、石ではなくガラスという物質につながるという不思議さが、この絵の核なんでしょう。

だから、今回は「ドローイングって何だろう」ではなく、「このドローイングの何が、どこが、その先の建築のどこにどうつながったんだろう」(=その絵の核)ということをいろんな例で考えてみるといいんじゃないかなと思ったりします。
もちろんそれは、対話篇という「伴走者」「中継車」「観客」としてであって、「ランナー」である学生諸君は、もっと一気にゴールすればいいわけだけど。

あ、それともうひとつ。
「模型」という言葉は青木君の設計と結びつけてイメージできたんだけど、実は「ドローイング」という言葉は僕の中では青木君とあまりつながりません。そういう発想で青木君、設計してるの?

[対話篇09 花→青 1]

今年も「オープンスタジオ 青木淳と建築を考える」の始まりです。
昨年は初めての試みだったけど、学生はもちろん、僕自身がいろいろなことを考える機会となり、嬉しかった。今年もよろしく。

昨年の課題は「模型から建築へ」
今年は「ドローイングから建築へ」。
青木君自身が課題書の中で、「今年の課題は、去年の課題と、<模型>を<ドローイング>に置き換えただけの違いしかない」と書いてはいる。
だとすれば、この「対話篇」もその置き換えをすればよいだけかもしれないけど、今年は少なくとも昨年の経験の上に何かを積み重ねないと笑われそう。単なる置き換えというわけにもいきません。

でもまあ取り合えず、昨年の対話篇での学習に基づき、その結論っぽかった言葉の中の「模型」という単語を「ドローイング」に置き換えるなら、今年の課題も、去年青木君が言ってたように、まずは「ドローイング、建築と測りあえるほどに」という言葉から出発するということだよね。
つまり、「ドローイングは、なにかを説明するもの、ではなくて、それ自体がなにかであるものです。という意味では、ドローイングと建築を区別することはない」という大前提に立つということ。

さてそのうえで「ドローイング」。
この言葉の意味は、定義は、とやっても仕方ないね、きっと。
たとえば、と少ない知識をたどっても、香山(壽夫)先生の『建築家のドローイング』に取り上げられているような、建物が完成した後に描かれたものも含む正統的な建築家による描画から、現代美術の領域でのたとえば「エモーショナル・ドローイング」のような生々しく個人の内面を晒したようなものまでのあいだに、建築の世界でも美術の世界でも、「ドローイング」にはさまざまな変異体があるだろうから。
描く道具や手法だってさまざまだし。鉛筆、絵具、ペン、写真、CG、それらの併用・・・。動画は入れてもいいんだろうか。描く「紙」だっていろいろだ。

だから・・・、ここでどんな話をしたらいいのか、難しい。

なので、いきなり学生諸君代表みたいな質問。

青木君にとって、「建築」へと展開した、あるいは展開するといいなあと思う「ドローイング」というのは、たとえばどんなものですか。つまり去年の「晶洞(ジオード)」に相当するもの。

ちなみに僕はというと、学生時代から思い返せば、建築畑なら、「ロッシ」「ロブ・クリエ」「レオン・クリエ」「アーキグラム」なんかの描いたパース。今から思えばアクソメという描法そのものもここでいう「ドローイング」だったようにも思うなあ。原(広司)さんが「1枚のスケッチ」と言っていた感覚にも憧れたけど、それはここでいう「ドローイング」なんだろうか。とにかくそんなものが「建築へ」とつながるといいなあと眺めていた。

美術なら、去年も書いた若林奮。このひとの描く空気感は大好きで、これはもう昔から変わらない。そこにはモノだけでなくそれを包む気配のようなものが細い線や点で描かれていて、こんな感じの空間が、建築や街や田舎のそちこちにちりばめられているイメージへの憧れが募ります。

ただ去年と同じ問題、つまりそいうったイメージをどう「建築」化するかという大問題がある。ロッシのガララテーゼ集合住宅を見たときには納得できたことが、門司港ホテルでは許せない。原さんの「有孔体」を示すイメージ図と慶松幼稚園はつながったけど、「様相」のイメージ図とヤマトインターナショナルは違うと思った。
そんなあれこれ。
逆にじゃあ若林奮の「ドローイング」を「建築」化したと感じるものを具体的に挙げよと言われると戸惑います。
あるいは、大好きな日土小学校に対応した「ドローイング」はどんなものだろうと考えると、意外に若林奮から少し強さを奪えば近いかなと思ったりもする。

すみません。つまらない話ですね。
きっと、そういうことじゃないよ僕の言いたいことは、と返されそう。
うまくつないで下さい。

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