[お知らせ]本日9/30は登録締切日です!

今年のオープンスタジオの応募登録の締切りは今日中です。
おかげさまで今年は、全国からたくさんの登録を頂いています。

すでに登録をしてくださった人には、来週辺りに登録番号を登録したメールアドレス宛に送付する予定です。登録受付確認メールが届かなかった人は、上手く受け付けられていない可能性もありますので、今一度、件名やメールアドレス(携帯メールは不可)などに不備がないか確認ください。

対話篇09 花→青 10

10月3日の青木君の特別講義と中間講評会が迫ってきて、今日は、学内で中間講評を希望している何人かの学生諸君と話しました。
昨年もそうでしたが、普段の具体的な設計課題とは趣が違うためか、何をしたらいいのかと戸惑う人もいるようで、そのあたりの誤解を解いたり、現代アートのドローイング作品を紹介したりしました。
余計なことかもとか、的外れかもとか、いやいやこういう親切さこそが教育なのなのだとか、これも去年と同じですが迷いつつ、まあいろいろと喋りました。
僕は、神戸芸工大の教育に欠けているのが、この課題のようなコンセプチャルな思考のトレーニングだと思っているので、それを補う場を少しずつ作りたいというわけです。学生諸君も、不慣れなことに臆病にだけはならないでほしい。臆病と自覚してるうちはまだマシだけど、いつしかそれが億劫になり、不感症になり、欠陥に気づかなくなったらおしまいです。

今日は、以下のような本やカタログを見せながら学生諸君と話しました。

■安藤忠雄や槇さんの作品集。その中のスケッチやコラージュを紹介し、「これは今回いうところのドローイングだ、これはぜんぜん違う、これは中間くらい」そんな話です。
■青木君の青森用の例の断面のスケッチ。
■ミースの作品集で、対話編で書いたことの復習。
Herzog & De Meuronの "Natural History"。 この中の、さまざまな模型によるスタディを紹介。たとえば、「模型の」素材をかえることによって、新たに生まれる空間の質に対応した建築空間を考えるという順番であり、「模型の」素材がアルミであっても実物の素材がアルミだとは限らないという自明のことの再確認。そして「模型」という言葉の「ドローイング」への置換。
■若林奮の展覧会のカタログ。東京国立近代美術館での展覧会(1987年)と、豊田市立美術館での展覧会(2002年)のもの。対話編で書いたことの説明。
野村仁の東京国立近代美術館での展覧会(2009年)のカタログ。時間を様々な手法で平面上に定着させている作品の紹介。
松井みどり『マイクロポップの時代:夏への扉』(PARCO出版 、2007年)の中の「痛い」ドローイングについて。
■目黒区美術館で昔おこなわれた「戦後文化の軌跡1945-1995」展(1995年)のカタログ
ピーター・ドイグのドローイングのこと。
■その他、いろいろ。

建築化の手前で、言葉によらず、描くことによる思考に留まってみること。

10月3日の青木君の特別講義、みんな来て下さいね。
学外の人も、これからささっと何か描いて、出展してみませんか。

対話篇09 花→青 9

9月27日(日)はオープンキャンパスで、高校生にこのサイトなどを見せながらオープンスタジオの説明をしたら、通じました。
「建築の設計を、機能や敷地や予算やらの条件から考えていってスケッチ化し模型をつくるんじゃなくて、その順序を逆にしてみると、それまでのやり方じゃ見つからなかった新しい建築を発見できるんじゃないかという実験なんですよ」。これで、高校生にもわかる!

何度も話題にする若林奮ですが、彼とまえだ英樹の対談集『対論◆彫刻空間 物質と思考">対論◆彫刻空間 物質と思考』(書肆山田、2001年)を読んでいると、まさにこのオープンスタジオの彫刻家版といえる思考や発言が随所にありました。つまり、若林奮は鉄を中心にした抽象的な彫刻作品を作る作家ですが、同時に平面つまりドローイング作品も多く発表し、しかもいずれの作品タイトルにもきわめて詩的な言葉がつけられることについて、評論家の前田がいろいろと尋ね、作家としての若林がそれに答えているのです。これが、彫刻を建築に置き換えると、まさにオープンスタジオの対話篇なのです(笑)。

全部書き写したいくらいですがそうもいきません。
ただとにかく、モノとしての彫刻を作る作業、平面上に線を描く作業、それらにタイトルとしての言葉を与える作業、この3つの若林の中での位置づけが、今回の「ドローイングから建築へ」ときわめてパラレルなのです。

まず若林は、鉄という素材について、「鉄はある尺度になる」とか「粘土は物質としては捉えていなかったと思います」とか発言しています。前田はそれを「「鉄と出会った」と若林さんがおっしゃる時の<鉄>は、この鉄それ自体が為すイデアルな表現だということになる」と評論家らしく言葉にしますが、ともかく、この「鉄」という言葉を「建築」に置き換えてみると、建築を言葉から解放した青木君の一連の仕事と重なります。

前田は、若林の作品名の詩的なタイトル、たとえば「振動尺」といった言葉を取り上げて、「若林さんの場合、「言葉」が彫刻の仕事の切れ目をつなぐかのように断続的に現れてくる」「いつも必然的に内側に言葉による探求を含んでいるのだ」と、やや「言葉」寄りの解釈を示しますが、若林は「言葉がそういうものかどうかは私自身はよくわからないんですが」「つくっている時は、ある素材やそれが変化していく状態と自分との両方がないと成立しない。作品ができていく、その時、私自身には言葉があります」と答え、まさに前回書いた言葉原理主義に対する「イエローカード」が出されているといえるでしょう。とくに、作品の前にではなく、「作品ができていく、その時、」言葉があるという感覚は、青木君の言うオーバードライブ感に近いように思います。

ドローイングについては、まさに「ドローイング―奥行の小さい彫刻」という節があるのですが、若林は自分のドローイングについて(以下、「絵画」がそれに相当)、「前田さんのお話で、絵画と彫刻の二つを指摘されましたが、私は絵画ができていないのではないかと思うのです。表現法や形式は絵画のふりをしているようなものも、ほとんど物質の話の中に収まるもののように思える。あるいは彫刻の一つの形式―薄い彫刻―と言うんでしょうか・・・そういうところに多分入れてよいんではないかと自分では思っています」と答えます。
面白いですね、どこまでいってもモノとして彫刻として平面上の描写もとらえている。おそらく、言葉についてすらそういう感覚の中でとらえているのでしょう。

さらに前田が、「紙の上に描くことによって彫刻にない何が捕えるお考えですか?」と、まさに今回のオープンスタジオの問題のような質問をすると(笑)、若林の答えは非常に繊細というか、どんどんモノの世界に迷い込んでいくのです。長いですが写します。

「紙に書く場合、奥行きが小さいことによって空間性が非常に変わってくるということがまず一つあると思います。たとえば木炭を使って紙に描くという時、それは、物である紙に木炭を付け加える、ということになります。物としての紙は厚みや重量はあるのですが、その上に線を描くことによって、紙は少し変わるように思われます。それ自体が私の前にある現実的な空間を少し変え、空間を無性格にすると言えるのではないかと思います。しかも、その作業は単純で、短時間のうちに、各時間の断片に対応することができる。それから色を使った場合ですが、私が考える色は素材・材料そのものが持っている色ということがまずあります。それが、いろいろな光によって変化することもあります。それからさらに、自分が絵の具を使って付け加えてゆくということもあるのですが、彫刻の場合、描線や彩色をすることは別の意味を持つように思えるんです。描線や彩色は、彫刻の延長上の仕事ではあるけれど、私の場合はむしろ、それまでの作業の中から一部を消してゆく作業だろうとも思えます。けれど、奥行きの小さな紙の場合は、紙や綿や鉄や銅などのどれかと重ね合わせ、それぞれの素材と代えられることもあり、彫刻とは別のこともああるようです。消し去る・弱めてゆく過程のものではなくて、何と言えばよいのでしょうか―物を染める、と言うんでしょうか・・・物を変化させる、と言えばよいでしょうか―そういうような使い方ができるのではないかというふうに考えることもあります。」

きりがないのですが、僕には、<彫刻をドローイングによって語る>というような感覚がよく伝わって来ます。「言葉によって」ではなく、です。
あくまでも「言葉」は、最初に書いたように、「作品ができていく、その時、」にある。
途上においてはドローイングなんだ、というわけです。
だから、言葉における単語や文法やレトリックに相当するドローイングの物質性のさまざまな特性に、彼の眼は向いていく。彫刻に最も優しく寄り添うのは、彼の場合、言葉ではなくドローイングなのですね。

と考えてくると、このオープンスタジオの「ドローイングから建築へ」、あるいは昨年の「模型から建築へ」というテーマの意図と、ぴったり重なるではありませんか!

長々と書いてきて、ま、要するにとくくったのでは身もふたもないけど、つまりは「<ドローイング(だけ)によって>考える」ということなんですね。

思考の場と道具を、頭の中から「紙」の上に移すこと。
「言葉」による思考の組み立てを、「鉛筆」のタッチや腕の「動き」に置き換えること。

ひらがなの一文字ずつのようなドローイング、
それらを子どもが初めて組み合わせて発語した言葉のようなドローイング、
逆にさっと提示された物語のように、部分よりも全体が見えるドローイング、
言葉というより耳障りな音のようなドローイング、
数学のような構築美のあるドローイング、

「言葉」の比喩にしたのでは元も子もないけど、ヒントにはなるだろうな。
でも必要なことは、この逆のベクトル。
「ドローイング」による新たな空間の発見。

【急告】神戸芸工大以外の学生諸君、中間講評会へ出展できます!

今年のオープンスタジオの応募登録の締切り(9/30)が近づいてきました。
おかげさまで今年は、本学以外の学生さんから昨年よりもずいぶん多い数の登録がおこなわれています。
そこで、10月3日の青木淳さんによる特別講義後の中間講評会への出展は、当初の制限
をはずし、本学以外の学生諸君にも門戸を広げようということになりました。
ただし、限られた時間ですので、5組とさせていただきます。
本学の学生作品はそれとほぼ同数の予定です。
講評を希望する方は、以下の要領で大至急お申し込み下さい。

なお、10月3日の青木淳さんによる特別講義後と中間講評会は14時からです。多くの方の参加を期待しています。

■出展条件
・出展申し込み時に、オープンスタジオへの応募登録をすませていること
・10月3日当日に、必ず会場に作品を持って来ることができること(交通費等の支給はありません)

■持参する作品の条件
・とくに形式にはこだわらないが、何らかの「ドローイング」が必須であることは当然であり、そのドローイングからイメージされる「建築」を示す図面や模型等が加わることが望ましい。
・「ドローイング」は、その表現方法にもよるが、可能な限り現物を持参すること。また会場のスクリーンに上映したいので、そのデジタルデータ(スキャン画像やデジカメ撮影の画像)も用意すること。

■出展者数
下記のメールによる申し込みで、先着5組

■申し込み方法
9/28(月)12:00から受付を開始します。
希望者は以下の要領で、メールにてお申し込みください。
件名の間違い等があると受け付けられません。

件名:
 中間講評会への参加希望

内容:
 氏名(ふりがな)・在籍校・学科名・学年・メールアドレス( 携帯不可 )
 
送信先メールアドレス:
 env-office[at]kobe-du.ac.jp
 ↑[at]を@に置き換えること。

■決定のお知らせ
応募状況によりますが、結果はできるだけ早くメールにてお知らせします。

対話篇09 花→青 8

質問に答えてくれてありがとう。去年に引き続き、この企画は僕にとって、青木淳論を考える格好の場です。
青木君自身は「設計を進めるとき、「ドローイング」という道具をあまり使わない」というのは予想通りだけど、重要な点は、「「言葉」も使う。でも、「感覚」のままに残したまま進めるところも多い。というのは、簡単に「言葉」にしてしまっては、失われてしまうものもあるから、ね」という部分ですね。
「言葉」になると失われてしまうものがあるということへの細心の注意。言葉の手前の、ぎりぎりの地点で留まろうとすることへの強靭な意志。
学生の頃は「言葉」の人だったと思うんだけどね(笑)。

ドローイング、言葉、無意識、落書き・・と呟いているとどうしても思い出すのが、知的な障がいのある人たちがつくる作品のことです。
たとえば、そういう人たちに制作場所を提供しているアトリエインカーブのアーティストの作品はどれも素晴らしく、とくに寺尾勝広が描く鉄骨の風景はすごい。
たとえば「柱とはりとカイダンデザイン」という作品。畳1枚ほどのベニア板に鉛筆で描かれた線とリベットの頭のようなものたちの集合は、建築にも都市にも見え、僕の想像力を刺激します。
僕は、こんな感じの、期待しています。

対話篇09 青→花 7

花田くんの判断どおり、このスケッチは、ここで言う「ドローイング」には入りません。
その空間がどんな空気の質をもっているのか、読み取れないからです。
ぼく自身は、このスケッチから、実は、ある特定の空気の質を実感するのですけれど、他の人は、きっと、感じとることができない。だから、ドローイングとは呼べない。
つまり、(ここで言う)「ドローイング」というのは、自分だけでなく、第三者を想定した絵のことです。

前に、丸山直文さんのアトリエにお邪魔して、お話しを聞く機会がありました。たしか、若い作家の話をしているときのことだったと思うのですけれど、丸山さんが、「やっぱり、どこかで第三者の視点も持って描いていないとねえ」と言われて、へー、美術であっても、第三者の視点が大切なんだ、とちょっと意外に思ったことがありました。美術というものが、自分はこう感じる、こう思う、ということから出てきているのは、まあ、たしかにそうなんだけれど、それを実現していく過程では、人もその作品によってそう感じるか?という視点も必要なのですね。そうでないと、独りよがりの作品になってしまう。つくること一般に、第三者の視点が大切、ということを、つくづく思いました。

ということで、「無意識の感覚的な落書き」の多くは、第三者の視点が入っていない、という点で、ぼくも、(ここで言う)「ドローイング」には入らないだろうと思っているよ。なぜ「多くは」と保留つきにするかと言うと、「無意識」のなかに、第三者の視点が入っている場合もなくはないし、「落書き」にも人の目を意識したものもあるだろうからだけどね。(「感覚的」なのは、おおいに結構。)でも、「無意識の感覚的な落書き」という言葉で、花田くんが言おうとしているのは、つまりは、自分だけがわかっていればいいという独りよがりの絵、という意味だと思う。

もっとも、とっかかりは、別に、「無意識の感覚的な落書き」でいい。そして、そこに感じられる世界が気にいったら、その気にいったところをはっきりさせーつまり、一歩引いて第三者の視点を入れーそれを伸ばすように、次の絵を書く。その絵が、いや、違うなあ、と思ったら書き直す。うまく行ったと思ったら、もっとうまくいく絵を書いてみる。そういう絵が、つまりは、(ここで言う)「ドローイング」というわけ。

その「第三者の視点」として、「言葉」という道具がある。しかも、すごく強力な道具として。でも、それでも、「言葉」は、その「第三者の視点」のひとつだというのが、ぼくの考え。
ぼくは、設計を進めるとき、「ドローイング」という道具をあまり使わない。(プレゼンテーションとしては、もちろん使うわけだけれど。)たいていの場合、模型をつくって、それを見て、設計を進める。その判断のなかで、「言葉」も使う。でも、「感覚」のままに残したまま進めるところも多い。というのは、簡単に「言葉」にしてしまっては、失われてしまうものもあるから、ね。

10/3の中間講評会のお知らせ

中間講評会

日時
2009年10月3日(土)

プログラム
14:00〜16:00 講義:青木淳「ドローイングから建築へ」
16:00〜18:00 中間講評会(神戸芸術工科大学の学生作品のみ対象)

会場
神戸芸術工科大学 デザイン教育センター 1114教室
アクセス方法は→こちら

どなたでも聴講可能です。席は当日先着順/入場無料

お問合せ先:
神戸芸術工科大学 環境・建築デザイン学科 事務室
神戸市西区学園西町8-1-1 078-794-5031

対話篇09 花→青 6

昨年は「書いたよー」とお知らせメールを送り合っていましたが、今年はarchitecturephoto.netさんのフォローが驚くほど早く、お知らせを交換しなくても、朝起きてまずそこを覗くと青木君から返事があったことがわかります。このサイトへのアクセス解析でも、経由先としてダントツの多さ。architecturephoto.netさん、ありがとうございます。

さて、「でも、そのドローイング、なぜ「無意識の感覚的な落書き」ではだめなの?」というのは覚悟していた反応です。きっと昨年の「模型」のときも、それから普段でも、青木君と話していると必ず一度は遭遇してしまう齟齬感ですね、きっと。
言葉と建築(というか、ドローイングや模型、あるいは要するにモノ)の優先順位を、ほんの少しでも言葉側に寄せた途端、青木君からはさっとイエローカードが示される(笑)。

なので、例によっての返事になってしまいますが、僕はべつに「言葉帝国主義」を振りかざしているわけではなく、「無意識の感覚的な落書き」には「言葉」がないからだめだ、と言っているつもりもありません。
そうではなくて、ある「無意識の感覚的な落書き」から「建築へ」の飛躍や接続が可能ならば、その「無意識の感覚的な落書き」からは必ず「言葉」が引き出すことができ、そうなった途端、僕にとってそれは「無意識の感覚的な落書き」などではなくなるということだけなのです。

「「言葉」が引き出せないといけないのか」、という質問がすぐに飛んできそうですが、「無意識の感覚的な落書き」を描いた本人には難しくても(何しろ「無意識」なんだから)、別の人間が引き出せるかどうか、しかも優れた言葉が引き出されるかどうかこそが僕にとっては重要な問題であり、まさにその引き出し役、いわば翻訳者でありたいと思っています。

ただし、翻訳したくなる「無意識の感覚的な落書き」とそうじゃないものとがあるわけで、その両者を区別する判断は「言葉」ではおこなっていない。なぜなら、何しろ「言葉」を引き出す前なんだからできっこない、できてはいけない。でも別の何らかの方法によってできている。

言葉と建築(というか、ドローイングや模型、あるいは要するにモノ)の関係で一番面白いのは、まさにこの両者の境界線を、いずれの方法にもよらずふっと越える感覚なんだと思います。学生諸君に期待しているのは、もちろんこの一瞬の越境を可能にする企てです。


ところで、10月3日、神戸芸工大での講義と中間講評、よろしくね。
もちろん学外の方もOK。多数のご参加をお待ちしています。

で、今日はその講義のポスターをつくろうとしていたのですが、タイトルはもちろん「ドローイングから建築へ」ですが、何か「ドローイング」も要るよなあということになり、青森県立美術館のときの以下の断面スケッチを挙げた人がいたのですが、これは今回の課題にいう「ドローイング」なのか僕は迷い、結局、特別な絵は入れずにデザインしました。
どう?というのは、この断面スケッチは今回青木くんの言う「ドローイング」の範疇にはいるものなのかな。
aomori

質問ついでに、以前書いた2つの質問にも触れてもらえると嬉しいな。
(1)第1信での質問
青木君にとって、「建築」へと展開した、あるいは展開するといいなあと思う「ドローイング」というのは、たとえばどんなものですか。つまり去年の「晶洞(ジオード)」に相当するもの。

(2)第2信での質問
「模型」という言葉は青木君の設計と結びつけてイメージできたんだけど、実は「ドローイング」という言葉は僕の中では青木君とあまりつながりません。そういう発想で青木君、設計してるの?

対話篇09 青→花 5

模型も現実の建築より抽象度が高いけれど、ドローイングは、それよりもっと抽象度が高い、と。少なくとも、高くできる可能性がある。それが模型とドローイングの違いなのか。なるほどね。

ともかく、ドローイングでは、柱があったら幻滅してしまうような、ある特定の質の建築イメージを、とりあえずそこにかたちづくることができる。でも、柱がないというのは現実としては困るから、どうやったら柱があるのに柱がないようにできるか、ということを考える。構造の問題として考える。柱の大きさ、形状、分布の問題として考える。柱の表現の問題として考える。そういう考えることのなかに、おもしろい案に膨らんでいく契機がある。抽象と現実とのこのギャップ、あるいはその解消が建築のおもしろさですね。

でも、そのドローイング、なぜ「無意識の感覚的な落書き」ではだめなの?

# 対話篇09 青→花 5

模型も、現実の建築より抽象度が高いけれど、ドローイングは、それよりもっと抽象度が高い、と。少なくとも、高くできる可能性がある。それが模型とドローイングの違いなのか。なるほど。

ともかく、ドローイングでは、柱があったら幻滅してしまうような、ある特定の質の建築イメージを、とりあえずそこにかたちづくることができる。でも、柱がないというのは現実としては困るから、どうやったら柱があるのに柱がないようにできるか、ということを考える。構造の問題として考える。柱の大きさ、形状、分布の問題として考える。柱の表現の問題として考える。そういう考えることのなかに、おもしろい案に膨らんでいく契機がある。抽象と現実とのこのギャップ、あるいはその解消が建築のおもしろさですね。

でも、そのドローイング、なぜ「無意識の感覚的な落書き」ではだめなの?

対話篇09 花→青 4

ミースの話を書いたのは、たまたまMOMAのデータベースに画像があったからなのでしたが、さすがにいろいろと考えさせてくれますね。
青木君の言うように、彼のドローイングのひとつの特徴は、背景に広がる「死んだような町」ですね。そこに、人や車を「描かなかったこと」によって、彼の描写、つまり「描くこと」が特徴づけられている。
ミースの住宅のスケッチには人が描かれることが多いけど、しかしそれでもぽつんとひとり、しかも人が、ではなく、その影が描かれているような描かれかたですよね。つまり、そこでも人を描かないことが描かれている。

そういったドローイングを見ていると、神としてのミースがまずは空間だけを創造し、人間はこれから徐々につくっていこうとしているような感じすらします。

で、こういう感じって、模型だとどうなるんだろと思ったんですね。
そしたらMOMAのデータベースにはちょうどスカイスクレーパープロジェクトの模型もありました。
これ自体は後に作ったもののようですが、ミースの当時の模型写真もいろんな本に出てますよね。円形のコアが2つあって、外形も曲線のやつ。
残念ながら平面図はこのデータベースにありませんが、その図面とこの模型の一番の違いは、図面には柱が描かれてなく、模型にはそれがあるということだと思います。別の例だけど、この平面図にも柱がないですよね。やはり、こういうふうに見せたいと思ったんでしょうね。

でも一番すごいと思うのは、前回書いたようにやはり立面図で、これは足元に既存部の建物のシルエットが描いてあるから、かろうじて高層建築だろうとは想像がつくけど、それにしても、装飾や三層構成やらによって何らかの分節があるという古典的な建築の常識からすると、何とも不可解なオブジェなわけです。
でも、柱のはいった模型の方からは、あまりそういう異界の雰囲気のようなものは漂ってこない。

ドローイングと模型の違いを見出そうとすると、こういうことかもしれないなと思います。
つまり、ドローイングの方が、さまざまな言語的思考を反映させたり、そこから引き出したりしやすい、ということ。

もちろん次元がひとつ少ないわけだから、具体性が減り抽象度が増すのは当然といえば当然ですが、むしろそれによって表現できる世界がかえってクリアになる。

だから、僕が今回、学生諸君の「ドローイング」に期待しているのは、昨年の「模型」以上にそこから言葉が引き出せる表現です。
ドローイングって、無意識の感覚的な落書きではなく、何らかの意図のもとで描かれる知的な表現行為なんだと思う。「模型」は逆に、それによって意図を確認する道具だったような気がします。

対話篇09 青→花 3

課題への答えがわからなくて困っているのではなくて、この対話篇に書くべきことを思いつかなくて困っているのです、もちろん。

ミースのこういうのには、人っこひとりいない。自動車も走っていない。ずっと向こうまで、建物が立ち並んでいる。その建物からは建物らしい細部が欠けていて、黒々とした岩石の塊のよう。それら整然と佇む塊の群れを従えて、「スカイスクレーパー」が、ひとり剣山のように、とことん硬質の透けた結晶体として、屹立している。長い時間をかけて、垂直に析出し、水晶のよりずっと重い質量をもった結晶体。まわりの凡庸な岩石と比して、その岩石のあまりの高貴。人の存在の前に、完成し完結したもうひとつの自然世界。人は、そのなかにただ迷いこみ、彷徨い歩くのみ。

そうした建築のありかたが、ここにはっきりと定着できているのが、すごいね。ある意味では、ミースの建築は、この世界観の現実世界への定着行為であったのかもしれないと思ったりします。

[対話篇09 花→青 2]

3週間近くたちましたが青木君から返事がありません(笑)。
実はメールでやりとりしているのですが、

  うーん、こまった。。。。
  なにも思いつかない。。。
  こまった。。。。。

という返事が返ってきたきりなのです。
学生諸君、「自分が困るような問題出さないでくれ」なんて責めてはいけませんよ。
先生の仕事は、自分ができなかったことを学生にやれるようになってもらうこと、なんですからね。
むしろ、青木さんでさえこんな調子なんだと思うべきです。
出題者でも答えに困る。つまり、あらかじめ予定されている答えはないということですね。
いいかえれば、皆さんにいくらでもチャンスがあるというわけです。

それはともかく学生の皆さん、応募登録だけは早くして下さいね。締め切りは9月30日。もうすぐですよ。

実は僕も困っています。
青木君に送った督促メールに書いたことをもとに、「埋め草」の第2信。

昨年の課題・「模型から建築を考える」のときは、「模型」が3次元のものだから「模型」と「建築」は近いものに感じられ(「模型のような建築だ」という悪口があるくらい)、「両者の違いってどう考えてるの」「青木さんの言う「模型」って何」といった質問から始められたんでしょうね、きっと。
で、それがけっこう思考を刺激した。つまり、「模型」って身近なものだけど、あらためて考えるとあれは一体何なんだろう、と。

ところが今年の「ドローイング」は2次元なものだから、「そりゃまあ建築とは違うよな」「何かイメージを喚起するような絵を描きゃいいんだろ」みたいな感じになってしまって、ちょっと突っ込みどころを失うところがあるのかもしれませんね。
それと、建築の世界には「スケッチ」という似たような言葉があり、「ドローイング」という日本語は、建築の設計作業の中ではあまり使わないから、「模型」以上に戸惑う部分がある。
でも、スケッチというと、与条件に基づいて建築を考える作業に取り込まれた具体的なさまざまな絵に一見思えるけど、その与条件そのものを見直したりつくったりする、つまり今回きっと青木くんが「ドローイング」と呼ぶものに近い場合もありそうにも思います。

たとえば、ミースのスケッチ(ドローイング?)で、こういうのや、こういうのや、こういうのを見ていると、つくづくそんなことを思います。

つまり、絵が具体的か抽象的か、リアルかファンタジックか、みたいなことは関係ないんですね。
鉛筆で描かれたこの黒々した塊が、石ではなくガラスという物質につながるという不思議さが、この絵の核なんでしょう。

だから、今回は「ドローイングって何だろう」ではなく、「このドローイングの何が、どこが、その先の建築のどこにどうつながったんだろう」(=その絵の核)ということをいろんな例で考えてみるといいんじゃないかなと思ったりします。
もちろんそれは、対話篇という「伴走者」「中継車」「観客」としてであって、「ランナー」である学生諸君は、もっと一気にゴールすればいいわけだけど。

あ、それともうひとつ。
「模型」という言葉は青木君の設計と結びつけてイメージできたんだけど、実は「ドローイング」という言葉は僕の中では青木君とあまりつながりません。そういう発想で青木君、設計してるの?

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