藤原佑樹/あちら側の自分。

あちら側の自分。
藤原佑樹  和歌山大学 システム工学部環境システム学科 3年

あちらの自分。

[講評]
自然の光がつくるうつろう空間。それは自然を素材とした一種の物語のようなものを想像します。1年を通しての、また1日ごとの、その長大な物語は、無限の可能性があるでしょう。そのなかで、この作者がどのような物語を紡いでくれるのか。そこに興味を持ちました。(家形を原型とする必然性はなさそうです。)(青木淳)

コメント(2)

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ご講評ありがとうございました。

今回僕は「ガラスの向こう側にいる自分はどんな世界にいるか。」ということを考え、閉じた空間にヴォイドから光を取り入れ、時間と共に移り変わる空間という形で表現しました。

僕にとってこの模型の主役は内部空間だったので、「自然の素材」は、この模型にとって脇役の話であると考えていたので、講評は逆をつかれていたので意外でした。

僕が脇役だと思っていたものからの、もう1人の自分の表現は、どういう風になるのかまだ想像はつきませんが、これから考えてみたいと思います。

※講評とは関係ないんですが、タイトルが「あちら側の自分。」ではなく、「あちらの自分」となっているので、管理者の方の時間があったら修正をお願いします。

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すでに作品は大学に返却してしまっているので、このホームページの画像を拡大して、説明文を読みなおすしかなく、だから、もしかしたしたら間違っているかもしれないけれど、藤原さんは「ある限定された環境内に、出現、消失し、どこまでがひとつの空間か認識できないほど、ゆっくりと移りかわっていく空間」をつくろうとしているようです。なぜそのような空間が、ガラスを隔てることで、こちら側でなく、あちら側の自分を想像してしまう、そのあちら側の世界に相当するのか、これは本人でないとわかりません。(ということを、本人は、よく忘れてしまうものですけれど。)その他人にはわからないことを、言葉(頭)でわからせようとするのではなく、モノでわからせようとするのが「デザインする」ということです。(あるいは、他人にわからないということは、実は、自分でも、自分が信じているほどにはわかっていないことであって、だから、その自分でもよくはっきりとわかっていないことを、言葉(頭)で考えるのではなく、モノをつかってはっきりとさせようとするのが「デザインをする」と言ってもいいのですけれど。)
ということを、わざわざここで言うのは、「ある限定された環境内に、出現、消失し、どこまでがひとつの空間か認識できないほど、ゆっくりと移りかわっていく空間」という言葉から想像される空間のイメージと、提出された案にみられるイメージとがずれているからです。言葉から想像されるのは、空間の形が曖昧で把握しにくく、茫漠として、霧のなかの世界のような、ただそれが時とともに光の分布だけが移ろっていく空間、といった感じです。それに対して、案のイメージは、家型という強い形のなかに、しかも銀色の筒がノツノツと突き刺さっている、実にはっきりとした輪郭をもったモノが「これでもか!」というくらい強く、溢れている空間です。これでは、もしかしたら、ズレというよりも、むしろ、正反対、という感じですね。
しかし、だからこの案はよくない、というのではありません。逆に、人にはこのように大きなズレに思えることが、本人の感覚のなかではたぶんズレていないわけで、そのギャップこそにこの案の可能性があると思っています。だから、どうぞ、最終講評会には、模型を見れば、なぜ藤原さんが、その空間が、ガラスを隔てた向こう側の「あちら側の自分」を想像させるのか、説得力をもって伝わってくるものにまで、案を(言葉でなく)磨いてください。
 いずれにしても、筒の刺さり方は、光の状態をスタディして導き出されたというよりも、筒の構成を視覚的に考えて出てきているように見えます。どういう形の筒を、どの位置に、どの向きに置いたら、その空間に、ある一日の本当の日の動きに応じて、どのような光の場をもたらすのか。そういうことを正確に、本気に、スタディしたらば、すごくおもしろい案になるだろうし、そうすれば、たぶん家型ということもどうでもよくなる気がします。
(ここで家型というのは、外形ではなく、内部空間としての家型です。念のため。)

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