[対話篇 花→青 9] 中間講評会を終えて。

10月4日(土)、青木君の特別講義とオープンスタジオの中間講評会、無事終わりました。お疲れさまでした。
参加者は、学内からと学外から半々くらいでしたね。「応募登録したひと手をあげてー」と尋ねるとたくさんあがりました。期待大。

特別講義は、メルクリとの展覧会に青木くんがスタディ模型を提出した住宅の設計プロセスを、そのときの模型や図面で詳しく説明してくれました。
99案の関係は相変わらずスムースに頭に入っては来ませんし、その一方で最終案がなぜ最終案として青木くんが納得したのかもわかるような気もするし、でもそれは残り98案の上に成立しているようには見えないし、というわけで、相変わらず青木くんの設計プロセスは謎に包まれたままなのですが、しかしそのことよりも、99案および現在も条件を変えて同じ敷地で続いているという多くの別案のスタディの圧倒的な迫力というか、青木くんが、まさに建築という「言葉」を巧みに操って「文章」を組み上げている様子が、圧倒的な生々しさで伝わって来ました。こんなの見ていいの、見せていいのという感じでした。建築の設計プロセスが直線的であるはずはないと頭ではわかっていても、どこかそれを期待する部分があるとしたら、この生々しさが、そういう幻想を完全に打ち破ったと言い換えてもいいです。

さて、今回は芸工大の学生7名の作品の講評でした。
学部2年から修士2年までいたので、作品のレベルもさまざまでしたが、普段の課題でも、中間講評はとにかく問題点の早期発見、課題の目指すものの確認、そしてその超え方への感触の獲得が最大の目的なので、その意味では、価値ある会だったと思います。

いずれ出現させたいと思う空間の質を示す「模型」を考え、それを「建築」化する際には、それによって現実の空間の一部を変化させていること。課題の主旨はそういうことなんですね。
もちろん設計とは常にそれをやるわけだけど、実際の仕事では相当意識的でいない限り、「いずれ出現させたいと思う空間の質」はできあがってしまった「建築」が結果的に決めてしまっているということになりがちです。
今回の課題は、その「いずれ出現させたいと思う空間の質」を、あらかじめはっきりと認識し、そこから出発しようということなんですね。しかも「あらかじめはっきりと認識」する手段として「模型」を使う。だからその「模型」は、いつも作り慣れている模型とは、素材もスケールも違うはず。
感覚で考える、みたいな矛盾したことが必要なんだろうな。感覚を研ぎ澄ませて、それにフィットした「模型」になっているかどうかを考え抜く、というか、感じ抜く。
でも、考えるっていうことは、どんな場合でもそういうことだけどね。

その次には、「模型」から「建築」への距離もよーく考えてほしい。
講評のときも言いましたが、Y君の「ブランコ」を例にすれば、「重力からの自由な状態」の象徴として「ブランコ」や「ターザン」を「模型」として示すのはいいとしても、それを「吊られた構造」へと「建築」化したのではつまらないということです。
そうではなくて、たとえば、「重力から自由」→「場所がひとつに固定されない」→「ここにいるのにあそこにいるような気がする」と連想を進めると、青木くんがリュベトキンのペンギンプールのスロープを例に言ったような感覚(=「ペンギンに見られているだけでなく、自分もあのスロープをよちよち歩いているような感覚に襲われる」)が得られるからこそ、単に構造的に浮いて見えるからではなく、それが「重力から自由な状態」の「建築」化だということになるわけです。
よーく考えよう。

ところで、青木くんが、7作品すべて「敷地」がないのは変と指摘してたけど、学生諸君はきっと「え、敷地がいるのか」という感じではなかったかな。梯子をはずされた感じがしたかもね。
このあたりが青木くんの青木くんたる由縁という気がしますが、??と思った人は、表参道のルイヴィトンについて『新建築』に彼が書いた解説を読むといいよ。それでわかると思う。

中間講評の希望者は、なぜ男子学生ばかりだったんだろう。
偶然と思いたいけど、こうやって長々と議論すればするほどその意味が無くなっていく感じがすることから明らかなように、今回の課題は、まさにそういった「男性的な発想」の対極が求められていると思います。それをできるのが女性だ、などとは必ずしも思いませんが、男性である私としてはものすごく期待してしまいます。
ハナダはふだんから理屈っぽい、ゆえにハナダが関わっているこの課題は理屈っぽい、という推論は成り立たないからね。理屈っぽいハナダが自分の理屈じゃ到達できない世界を探している。そう思ってねと、これは学内女子学生さん向けメッセージ(笑)。

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