[対話篇 青→花 4] 晶洞について

こんにちは。青木です。

この課題で、模型と呼んでいるものが、「『まだ見ぬもの』の原型となるイメージのようなもののこと」というのは、まあ、そのとおりだけれど、「原型となるイメージ」とは、さて、どんなことを指すのだろう?

たとえば、この課題のチラシやポスターは、ぼくが課題をノートに書いたものを利用していますが、最初は、晶洞(ジオード)の写真を使ってもらおう、という案でした。晶洞というのは、外から見れば、どうということもないただの岩石なのですが、割ってみると、内側に空洞があって、その空洞に向かって、水晶やアメジストの微結晶がびっしりと析出している、そんなきれいな石のことです。どうして晶洞かと言えば、ぼくは、これを建築計画の「原型となるイメージ」としたことがあったからです。2005年にあった「ジャイアント・コーズウェイ・ビジターズ・センター」のコンペのことです。
ジャイアント・コーズウェイというのは、その析出した巨大な六角形石柱によるランドスケープで有名な、世界遺産に登録されているアイルランドの海岸です。そんな場所のビジター・センターなのだから、「建築」にまるで見えない、岩石のかたまりのようなものがいいのではないか、と思って、つくった案です。構造は、基本的には、「白い教会」のリング格子を全面的に採用したもの。リング格子が立方体空間を充填していて、結晶のような、その疎なかたまりを洞窟のようにくりぬいて、空洞を得る。
そんな案を考えているとき、こんな感じのものを今までに見たことあるな、と、晶洞のことを思い出しました。そして、そうか、晶洞のような美しさを持った建築になればいいんだ、と思いました。と同時に、「これでできた」と思いました。

問題は、「晶洞のような美しさ」とはどういうもののことで、またなぜそれで「これでできた」と思ったのか、ということですね。

「晶洞のような美しさ」というのは、ぼくたちを日常的に取り巻いている世界のなかの、ごくありきたりのモノのなかに、もうひとつの世界があることを気づいたときの、なんというか眩暈のような感じのことです。「ありきたりのモノ」は、その外側のぼくたちが呼吸する世界を構成するひとつの要素に過ぎません。だから、ありきたりのモノの内側の世界は、物理的には、外側の世界よりはるかに小さいわけです。しかし、その内側の世界を凝視しているうちに、ふと、その関係が反転して、内側の世界のなかに、外側の世界が吸いこまれてしまったような気になってきます。小宇宙の全体性というか、バロックというか。ともかく、そんな眩暈があるのですね。ぼくは、晶洞を見ていると、そんな眩暈に魅せられ、ついつい見入ってしまいます。
だから、「晶洞のような美しさ」と言っても、それは、「アメジストの小さな結晶がきれい!」というような意味では、(まあ、それもまったくないとは言えませんけれど)ありません。それは、ある視覚的入力が「美しい」というような直接的な感情を生起させる、というよりは、今、説明したように、もっと複雑な回路をたどって、ある圧倒的な感覚に捕らわれるという、その昂揚したある精神的状態を意味しています。だから重要なのは、晶洞そのものではなく、そこから感覚にいたる方程式だと言えるでしょう。

では、なぜそれで「これでできた」と思ったのか、です。「晶洞をつくる」というのは、晶洞を似絵と捉えて、晶洞みたいに見えるものをつくる、ということではありません。そうではなく、いま言った方程式の変数に、与えられた条件を代入して、それによってある特定の感覚を生起させる、ということです。
いまここに晶洞があるとしましょう。ひとつの晶洞の姿が、方程式に代入されます。そして、その方程式が運用されて、ある特定の感覚が生起される。しかし、たぶん、その晶洞でなければその感覚が生起されない、というものではないでしょう。他のまったく別のモノであっても、同じ感覚あるいは同じような感覚をもたらすかもしれない。
ただ、その方程式がそこにあることはわかっているけれど、どんなものであるのかがはっきりとしない。だから、つくるということは、その方程式を、つくるということを通して、見つけていく、ということです。なんだか、ややこしい言い方になってしまいますが、つくるということは、そもそも、そんな再帰的表現でしか言えないことなのです。はじめからわかっていることなら、わざわざつくるまでもないのです。
ともかく、こういうことがうまく行けば、晶洞とはまるで違うモノだけれど、晶洞から受けるのと同じようなある特定感覚が生起されることになります。この場合、できたモノは、ある意味、作業の副産物と言えるかもしれません。でも、そういうモノだけが、モノとして自立しえる、とも思っています。

ぼくの場合は、設計の出発点に、「晶洞」と言い切ってしまいます。それから、どういう物理的原因によって晶洞が美しくなっているか(つまり、どうして晶洞はある特定の感覚を与えるか)を考えてみます。それで、きっとこういう原因ではないか、と思われることを見つけます。仮説、ですね。それから仮説を試します。様子を見ます。どうも調子悪いなあ、と思えたら、仮説を調整するか、立て直します。そういうなかでは、「晶洞」はきっかけにすぎません。そうやって、最初に捕らえた感覚に少しでも近づいていこうとします。それが、つくるということです。どこで終わりということはありません。でも、建築だったら、設計の締め切りがあり、竣工があります。そこで、形式的には終わってしまうわけですけれどね。

花田くんは、「実物を見ると、『あ、これは「トレンチ」じゃない「トランク」じゃない』とすぐに思え」た、と言います。
なぜそうなってしまうか、これでわかってもらえるといいのですけれど。

ということで、では、また。

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