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トークセッション2012 第3回 長坂常「仕組みづくり」レポート 花田佳明

2012/07/05
Update: 2012/07/16 @野村

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 トークセッション3回目は、建築家の長坂常さんにお願いした。
 今回のトークセッションのラインナップを考えているとき、いわゆる建築家が、建築ではなくいわゆるインテリア方面の仕事に携わる事例が多くなっていることが気になり、そういう方面の建築家をどなたかひとりお呼びしたいと願っていた。
 若い人たちのお顔や作品なども思い浮かべ、あれこれ考えてみたのだが、初対面の私でも相手をして下さりそうな感じがしたのがやや上の世代に属する長坂常さんだった。もっと正直に書けば、ひとりではいるのは気後れするおしゃれなお店に見えてしまうような方々ばかりの中、長坂さんの飄々とした顔写真と「Sayama Flat」の中に屹立する襖のやや古風な潔さにすがろうとしたというのが本音である。
 長坂さんは、あの顔写真のイメージ通りに登場した。短パンに白いTシャツ、白いジャケット。くしゃくしゃ頭に丸眼鏡。私は挨拶もそこそこに、設計の授業をやっているスタジオ(製図室)へと長坂さんを案内したが、先生というより歳をくった大学院生みたいな様子で雑然とした空間に溶け込んでおられる姿が印象的だった。

 長坂さんのレクチャーは「Sayama Flat」から始まった。既存のマンションの襖や敷居や鴨居だけ、あるいは和室部分の仕上げだけをすっぽり残し、それ以外の仕上げをただ取り去ることによってできたように見える作品である。
 会場のスクリーンにはまず夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭が映し出されたが、いくつかの言葉が白く塗り潰されていて、残った文字だけを追っていくと全く別の物語になるというわけだ。なるほど。
 きわめて低コストでの依頼だったため、長坂さんは図面は書かない模型も作らないと決め、現場で壊しながら考えていった。その結果、「100円ショップのゴミ箱を置くことなど無理な」「抜き差しならない」空間ではなく、「どんな家具やモノを置いても大丈夫な」「抜き差しなる」空間が出現した。何も足さず、ただ引くだけで生まれた空間のかっこ良さに長坂さんの建築観は揺さぶられ、それまでまさに自分もやっていた「抜き差しならない」デザインを捨てようと決めた。「Sayama Flat」は長坂さんに大きな転機をもたらした。
 次は「奥沢の家」。一見レンガ貼りのイギリス風高級住宅だが、実は木造で切り妻屋根まで隠れている。そんな「見栄っ張り」で「欧米へのコンプレックスのかたまり」のような住宅を改装した作品である。
 長坂さんはこの住宅にさまざまな操作を加えた。レンガ調の外壁はモルタルで埋め、そこを堅いブラシでこすっていく。するとフロッタージュのようにレンガ模様だけが浮かび上がる。内部は天井を剥がし切妻屋根の存在をあらわにする。木造のくせに補強のためにはいっていた鉄骨もむき出しにする。階段はゆったりとしたものに付け替えたためにそれまでの入り口は使えなくなり、隣にあったトイレの入り口を転用する。そして窓ガラスにはミラーフィルムを貼り、こういった操作が夜になると外から丸見えになるようにした。見栄っ張りな建物のあらゆる部分が裸にされたというわけだ。既存の建物を手がかりにした、何という知的な建築的操作だろう。
 さらにリノベーションや家具の作品が紹介されたが、いずれも既にあるサッシュや部材や寸法やらに新しく何かを加え、それぞれが単独では絶対に無理な気配や質感が生み出されていた。
 「はなれ」という新築物件の紹介もあった。長坂さんは「構成」が嫌いだという。その方法だと、彼は「抜き差しならない」見事な関係を容易に描けてしまうからだろう。ではどういう根拠で空間を作ればよいか。長坂さんが考えたのは「接点」だけで成り立っているような建築で、建物の部位を「鉄骨レイヤ」「木造レイヤ」「建具レイヤ」「家具レイヤ」「屋根レイヤ」に分け、それらの間には何も介在しない組み立て方を実現した。たとえば、木造レイヤと建具レイヤの間には垂れ壁もなければ枠もない。そのような手法でできた空間は、たしかに「Sayama Flat」で彼が示したものの延長線上にあると感じられた。
 こういった作品がいわば「Sayama Flat以降」なら、長坂さんはさらに「3.11以降」にも自分の中で大きな変化があったと話を続けた。
 長坂さんは震災後、石巻市船越の人々と共に、壊れた家の屋根に使われていた石を利用してアクセサリーを作り、地元に産業を興す手伝いをしてきた。その経験の中で、「コンセプト」という言葉が浮ついて思えるようになり、その代わりに「仕組み」という言葉がしっくりくるようになったという。またこの仕事や家具製作などを通してオランダに行く機会が増え、自分たちの国土を自分たちで作ってきたオランダという国の、まさに「仕組み」づくりに対する姿勢に感激した。職人技の世界ではなく、誰にでもできる方法を考えようとする意志である。そして、日本もそんな「仕組み」を作り直す必要があると長坂さんは考えるようになったという。
 さらにいくつかの最新プロジェクトの写真を見せていただき、具体的で説得力のある長坂さんの講義は終了した。

 私は、たいへんに心地よい読後感のようなものを味わっていた。長坂さんのお話と作品が、物語的かつ論理的だったからである。しかも、建築の外側にある領域の力を借りた理屈ではない。あくまでも、設計の対象として扱うモノだけを手がかりに組み上げられた論理なのだ。
 正直言って私の中には、「Sayama Flat」に残された既存部材を「アート」ではないかと疑う気持ちもあったのだが、自らの操作を見事に言語化する長坂さんの姿勢が、そんな思いをいつの間にかどこかに押しやっていた。まして「インテリア」という手垢にまみれた言葉で説明のつく世界ではないことも明らかだった。
 いくつかの質問に答えた後、長坂さんは「えもいわれぬ空間は、えもいわれぬ空間だと言っているだけでは失われてしまう。それをなくさないために、建築家はこういった空間をきちんと価値づけないといけない」と締めくくった。
 既存のモノの状態を慎重に読み取り、そこに加える建築的操作が生み出す効果をさらに慎重に解析する。建築的知性とは、まさにこのような思考や姿勢のことをいうのだと強く思った次第である。

長坂さんの作品については以下のホームページ(スキーマ建築計画)をご覧ください。
http://schemata.jp/


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